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第一章 3
レミーXOを奢ってくれた弁護士、確か杉田という名前だと思うが違うかも知れない。
ともかくテーブルに並んで腰を掛けた。盛り上がっていると言っても一人が冗談を言い、それを誰かが冗談で返すというものだ。この店のオーナーがゲイなので、自然とそういう客が増え、「それならばいっそのことゲイが楽しく交流出来る店にしよう」という流れになった店だ。店の外では付き合って居る人間は居るらしいが、店の中では行為に及ぶ者は知る限りは居ないし、祐樹に色目を使って来る常連客も居ることは居たが店の中で告白されたことはない。そういう気楽な店だからこそ常連になっている。祐樹に取っては居心地の良い場所だった。
自分の職業も公にしていない。杉田弁護士は店の外、実は大学病院でばったり会って職業も知られたというわけだ。自分の職業を公にすると、無料健康診断をやらされる羽目になる。それだと職場の延長上になってしまうので嫌だった。
だから、表向きは会社員と名乗っている。この世界で楽しんで、日常生活に戻ればいい…そういった考えだった。
まぁ、この店で出会って寝てもいいと思う人間とは複数寝たが、それもホテルの一室でで、自宅に呼んだこともない。祐樹は日常生活と趣味とを分けて考えていた。
それにこの店のオーナーのことは気に入っている。ゲイが集まる店に「グレイス」と名付けるセンスはどうかと思うが。往年の大女優かつモナコの王妃だったグレイス・ケリーに因んだ名前は正直ミスマッチだ。
ボックス席の盛り上がりに適当に参加しながらもそんなことを考えていた。
「お、オーナーのお出ましだ」
酔っ払い特有の大声で誰かが叫んだ。
「いらっしゃいませ。楽しんで戴いてますか」
そう挨拶するオーナーは特殊な水商売を経営しているとはとても思えない人間だ。どこぞの大企業のそこそこの地位に居るような感じを受ける。歳は多分50歳位だろう。独身と聞いて居るが、身に付けるものはいつもきちんとしている。名前は確か、上村と言ったはずだ。時々店に現れては従業員の勤務態度を確認した後、客1人1人が満足しているかどうか確かめている。
「オーナーも一緒に呑もうよ」
祐樹の近くに居た男が誘っている。その時、内ポケットに入れていた携帯が振動した。
「あ、『会社』からだ」
殊更「会社」を強調する。
ディスプレイを確かめ、通話部分を手で覆って扉の外に出る。
「もしもし、田中ですけど」
「急患だ。すぐ戻れ」
医学部助手の山本先生からだった。
仕方がない、息抜きはこれで終わりだ。
店に戻って別れの挨拶をした。
「部長に呼ばれまして…また来ます」
「仕事、頑張れよ。また待っているぞ」などの激励の大声を背中で聞き流す。
タクシーに乗り込み病院の深夜出口から入った。いつも持ち歩いている大きなカバンから身だしなみ用具を取り出す。歯磨きをし、ブレスケアまで口の中に放り込む。いくらマスクをするからといって、アルコールの気配を患者に悟られるわけにはいかない。最後に顔を洗い洗面所を出た。
不審を感じたのはナースセンターを通りがかった時だった。丁度夜食の時間らしく皆のんびりと何かを食べたり、雑誌を捲ったりしている。今日は非番の自分までも呼び出すような患者が居るとは思えない。自分の姿を認めたナースは驚いた表情を浮かべさえした。
とにかく、医局へ行ってみることだ…そう思い、先ほどまでは駆け足だったのを急ぎ足に変更した。
患者の命に関わることでなければそれで充分だ。
医局には、助手の山本先生と医局長の畑仲先生が居た。二人とも険しい顔をしている。
「遅くなって申し訳ありません」
無難に挨拶をすると、二人は仏頂面のまま椅子に掛けるように視線で促した。
「あの、急患は…」
「それは方便だ。香川次期教授について色々調べた。確かに腕は凄い。しかし、教授には相応しくないと判断した。それで追い落とし密談に君を呼んだ。君も黒木准教授に目を掛けられている。黒木先生が教授になれば色々とやりやすいだろう」
確かにそうだ。
一体香川先生が教授に向いていない理由を是非とも知りたかった。
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