第二章 9

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第二章 9

 電話は話しの内容から察するに齋藤医学部長からのようだった。  所在がないので、受話器を持つ香川先生の長い指を見詰めていた。すると香川先生の指が震えていないことにフト気付いた。良好な関係を築いた相手となら手の震えは出ないのだろうか。  医師という職業柄・・・特に研修医という大学病院の医師のヒエラルキーからすれば最低の地位に居る御蔭で立って待っているのは全く苦ではなくなった。   しかし、場所は重厚な家具に包まれた空間、しかも目の前に座っているのは自分とさして歳も変わらないのに、教授という地位を与えられた人間だ。その上今日はその雲の上の上司にスタッフが殆ど揃っている中で、堂々と反論までしてしまった。  医学部は病院経営を抱えているだけに、上層部でも隠語は多い。それは祐樹達のような新人でも多いのだから、教授の政治がある上層部は一般医師の隠語とも違う。  緊急病棟なら、「DOA」などの隠語が使われる。「デッド・オン・アライバル」・・・要するに、救急車に乗る段階は生存していて、搬送中、お気の毒なことに亡くなった時に使う。  所在無げに辺りを見回しても、結局は香川教授が手に持っている受話器と、彼の顔に視線が固定される。  秀でた額と絶妙なラインを描く眉・・・その下の瞳も客観的に見るととても綺麗だが睫毛も長い。普段の顔はどちらかと言うと内気そうなのに手術の時は大胆なかつ尊大な雰囲気をまとう。  指も長くしなやかだ。節ばった指では、ないがすんなりと白魚のように長い。  そんなことを考えていると、電話は終った。 「待たせてしまったようだ。早速だが、君は他の教授にもああやって自分の意見を開陳するのかね」  底を覗わせない摩周湖のような瞳だった。 「いえ、違います。私は看護師の愚痴も良く聞きます。日本の医療現場から離れていらっしゃった先生に対して敢えてあのような失礼な・・・」  「つまり、私の提案が不満だったので、普段は逆らわない目上の人間も逆らったわけだな。私だって、この大学に招聘(しょうへい)招聘を受けた時、日本の医療が抱えている問題は全て論文ベースで把握して来た。本当に『釈迦に説法』だよ」  自分が顔合わせの時に言い放った言葉を覚えていたらしい。 「あれから考えたのだが、君の言う医療現場の問題は外科だけではない。何なら救急救命室と兼任するということで話は通しておこうか」 「親切、御高配痛み入ります。ただ、先生が『鍛えなおしてやる』と仰った件はないということですか?」  一抹の不安を覚えて確かめてみた。  いや、香川先生ならスパルタだろうと判断し、それなら緊急外来の方がマシだ。この外来は24時間開いている。  救急救命室は、重なる時は大忙しだと聞いたことがあるが、このまま香川先生も自分の指導も放り投げてくれればよいのだが・・・という楽観論を香川が机に手を置いたまま答えた。  手は机に置いていても震えている。 「そうではない。最近の君のシフト表を見せてもらった。不思議なことに当直も免除・・・なので力は有り余っているようだ。夜勤日だけ救急救命室に行き給え」  緊急外来は戦場に喩えられる。要するにこれは香川教授の意趣返しだ。  昼は昼で手術、夜は緊急外来(多分外科)というのはあまりにも酷い仕打ちではないだろうか。  一切の感情を読み取らせない声で香川教授が言った。 「いつ、無理ですと泣き付いて来るのか・・・楽しみにしている」  薄く形の良い唇が弛んだ。 「話は以上だ。手術室で会おう」  そう言って、座ったまま視線を扉の方に向ける。出て行けとの合図だと理解し、丁寧に挨拶してから扉の前で一礼する。香川教授はびっくりしたような目の動きをしたが、多分気のせいだろうと思い部屋を出た。
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