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第二章 10
これからは、昼は通常勤務・・・夜は緊急外来勤務・・・悪夢のような勤務シフトだ。
実は「無理です」と言いたいところだったが、香川教授の勝ち誇った顔を想像すると、やるしかない!という決意が芽生えて来た。
医局に顔を出すと、皆がプリントアウトしたと思しき紙を見ている。
たまたま視線が合った柏木が祐樹の表情に肩を竦め、懸念の意を込めた視線を送ってくれる。力なく微笑み返すと、了解したとでも言いそうな頷きを返した。
「それは?」
祐樹が聞くと、同僚の彼は、「今日の手術の予定表一式だ。術前カンファレンスが不十分な時間しか取れないからなのか、『スタッフはこの書類を頭に叩き込んでから手術に臨んで欲しい』との香川教授の要望だ。これが細かい、細かい・・・」
確かにちらっと見ると、A4の紙が10枚以上ホッチキス留めをされている。
「お前は、足持ちだ」
柏木が教えてくれた。祐樹に取っては患者の足を固定するためにずっと足を持つ仕事は慣れっこだったので気にならない。
「助手はどなたですか?」
一文字一文字を頭に叩き入れようとする勢いで紙面に集中している柏木にそう聞くが、返事はなく、同じくホッチキスで留められた書面を無言で渡してくれた。
「助手・黒木准教授・・・」
その下に並べられた名前を見て感心した。同じ医局だけでは手術は出来ない。麻酔科などの医師も当然参加する。祐樹が噂で聞いた限りではリストアップされた医師は評価が高い先生ばかりだった。勿論、医療技師も看護師も。
看護師は特に執刀医が使う道具出しをする。香川教授が豪語した手術時間がもし本当ならこの看護師の方が自分よりも遥かに忙しいだろう。・・・と思って名前を見ると、外科随一の反射神経と運動神経を持つと噂の高い看護師の名前だった。
――このスタッフを決めたのは黒木准教授に違いない――
そう思ったのだが、穏健派の黒木准教授は山本センセにも気を遣っている。
彼の名前が入っていないのは・・・足持ちの自分が思う資格はないが、手術の手際がそんなに良くないからかもしれない・・・とフト思った。
もしかして、この人選は香川教授が行ったものなのかとも思う。
ざっとスタッフを見て、次のページをめくると、先ほど祐樹に説明したのと同じような内容が書いてある。医局にメールが下りてきて、皆がポッチキス留めをしている余裕があるということはそれまでに術式などを決めていたということなのかと思った。
香川教授が神経質なまでに拘っているのが「こういうミスが起ったらどう対処すべきか」という点だった。
事細かに対処法が書かれてある。柏木が熱心に読みふけるのも尤もだ。これは、祐樹達心臓外科医に取って素晴らしいマニュアルだった。
瞬く間に時間が過ぎ、手術の予定時間20分前になった。全員が手術着に着替え、患者と執刀医を待つ。
患者がストレッチャーに乗せられ運ばれて来た。麻酔医が全身麻酔をかける。
「麻酔、異常ありません」
その言葉が合図のように、手術着姿の香川教授が手術用の手袋に包まれた両手を上に挙げ入室してきた。
集中していることが容易に伺えるが、一瞬、眼差しがこちらに向けられたと思ったのは気のせいだろうと思った。教授の手術は心臓なのだから、足に注意を向けるハズはない。
「執刀、始めます。クーパー」
手術用ハサミを要求すると間髪入れずベテラン看護師が道具出しをした。クーパーとメスを使って神業のようにしなやかな手が踊る。患者は出血もない。これは稀有なことだった。最新の注意を払って血管を避けているのだろう。
「人工心肺用意」
「用意完了」
「では切り替える」
一つの山場である切り替え作業は上手く行った。時計を見ると驚くほど時間が経過していない。
――本当に三時間で終らせる積りなのか――
そう思うと、自分と香川教授の違いがマザマザと分かる、忌忌しいが。
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