第二章 12

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第二章 12

 北教授の頑固振りはこの大学病院で知らない者はいない・・・。だからきっと、齋藤医学部長が頼んでも、おいそれとは了承しないだろう・・・。  暗い気分で受け持ち患者の午後診を終えて、医局に帰って来る。  何も変わったことが有りませんように、との祈りも虚しく――自分は無心論者だったのが神か仏かの怒りに触れたのか――祐樹のパソコンに、メモが書かれた大型の付箋紙が貼ってあった。  余談だが、医療関係者、特に医師は文房具に不自由しない。医薬品や医療器具の販売会社の営業が、挨拶代わりにこういうものを持って来る。  付箋紙にも大きく薬品メーカーの名前が印刷されている。祐樹の机の中にも売るほどボールペンが溜まっている。これにも、もれなく会社名または薬の名前が書いてあるので実際には売れないが。  付箋紙の内容が「北教授が御呼びです。手が空いたら何時でも良いのでお部屋にお越し下さいとのこと」だったので、ツイ余計なことを考えつかの間の現実逃避に浸る。  呼び出しが有るということは香川教授の要求を北教授が呑んだということなのだろう。  早く北教授の部屋を訪ねなければと思うが、全く気は進まない。が、デスクで物思いに耽っているのも祐樹の趣味ではなかった。  屠殺場に連れて行かれる牛のような気分で最上階の教授室に向かう。  途中で「ドナドナ」の旋律が脳裏に浮かんで来たが、それよりももっと今の気分にぴったりな曲を思い出してそちらの旋律に切り替える。モーツアルトの「レクイエム」だ。あの曲の暗さの方が今の自分には相応しい。 「レクイエム」の一部「ラクリ・モサ」の最後のフレーズ「アーメン」を頭の中で奏で終わった時に北教授の部屋の前に着いた。 「研修医の田中、参りました」と言いながら扉をノックする。 「待っていた。入りたまえ」  一礼して入室すると、頑固一徹そうな顔に笑いに似た表情が貼り付いている。  本人は笑うことなど滅多にないのだろう。何せ、この大学病院一の気難し屋だ。これは北教授の笑いの表情に違いないと推定された。 「田中先生だな。香川君からの推薦だ。是非とも我が救急医療現場を学びたいとか・・・。いまどき、熱心な若者だと大いに感銘を受けた。喜んでお迎えしよう」  香川教授を「君」付けで呼ぶところが、北教授の頑固さを物語っている。何故、「君」付けなのかを考えて、自分の鈍さ加減に半ば呆れた。  香川教授もこの大学の出身だ。勿論自分もだが。そして、北教授の授業を受けたことがある。 「あのう・・・香川教授とは、どのようなご関係で」  元教え子・・・という返答は予期していたが、一応聞いてみる。 「田中君と同じ、元教え子だ。君と違って授業以外でも良く質問に来たし、それ以外にも色々とな。その時からメス捌きに興味が有ったらしく熱心だった。それで専門は違うが、色々教えたものだ。  その香川君は自己研磨の甲斐が有って、今ではワシと同じポジションだ。今日の手術を見せて貰ったが、まさに完璧なメス捌き。見学室で『ブラボー』と叫びたくなった手術は今日が初めてだった。その香川君の頼みでは断れない。  君も心臓外科の手術だとメスもなかなか握れないだろう・・・まぁ、研修医なら仕方ないが。ところがこちらでは幾らでも需要はある。しっかり勉強し給え。失敬」  笑顔らしきものを貼り付けたまま、電話をかけた。 「看護師長の安部君を呼んでくれ給え」  ぶっきらぼうにそれだけ言うと電話を置いた。 「その方が救急外来の責任者ですか」 「責任者は別の医師だが、我が緊急外来を仕切っている看護師長だ。勿論、看護師だから医師の仕事は出来ないが、激務な緊急外来の処置室のヌシと呼ばれている。または、ブラッディ・エンジェル。  並の医師よりも冷静沈着に処置が出来る稀有な人材だな。田中君も彼女に教わり給え。  何しろ彼女が居てくれるので、ワシは論文執筆の時間が取れる。彼女は医師を叱咤激励し、患者を救命に導く。どうしても手に負えない時しかワシを頼らない。  そんな彼女に今日から色々教えてもらい給え」  今日から、地獄の夜勤が始まるのか・・・と暗い気持ちになった。最悪でも明日からだと思っていたのだが。  それにしても、香川教授が齋藤医学部長の威光をかさに、北教授を説得したのではなく、自分だけで北教授に頼んだのは意外だった。といっても感謝する気には全くなれないが。  自分の専門である、心臓外科の勤務だけでも激務だと思っていたのに、それ以上の激務が始まるのかと思うと香川教授への恨みがまた一つ、増えた。
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