第二章 13

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第二章 13

「阿部です。お呼びと伺いまして」  控えめなノックと共に歯切れの良い声がした。 「入り給え」 「失礼致します」  そう言って入室して来たのは40代と思しき女性看護師長だった。ナースキャップに師長を表す黒い線が入っている。長めの黒い髪はマニュアル通りにきちんと黒いゴムで束ねられている。  入室して、北教授に一礼してから祐樹を見た。その瞳が少し驚いたように見開かれる。 「こちらは、心臓外科の田中祐樹先生だ。夜だけ、我が緊急外来に助っ人として勤務することになった。色々教えてやってくれ給え」 「阿部優子看護師長です。田中先生のお噂はかねがね。歓迎致します。何しろ人手不足なもので・・・」  気丈そうな顔に柔らかな微笑が浮かんだ。  どんな噂が飛んでいるのか少し気になったが、仮にも教授の前だ。私語は慎まなければならない。  阿部師長の顔つきからすると、自分に少なくとも悪意は持っていないだろうと見当を付ける。その内、噂とやらも教えてくれるだろう。  看護師の噂話は医局を超えて伝染するものだということも良く知っていた。ヒエラルキー的には医師の方が上だが、看護師侮れない力を持っている。ここは、好印象を与えた方が後々、何かとやり易いだろう。 「心臓外科の研修医の田中祐樹です。緊急外来は初めてなので、ご指導、ご鞭撻、宜しくお願い致します」  微笑して頭を下げた。 「こ、こちらこそ宜しくお願い致します。ただ、緊急外来は特殊な世界です。お上品な心臓外科と違って、まるで野戦病院のようで。だから、患者さんの前では私の指示に従って頂きます。ご容赦下さい」  彼女の化粧っ気の無い頬に赤味が差したまま言った。何故、顔が赤いのか良く分からない。 「勿論です。北教授の信頼の厚い師長の貴女に全面的に従いますよ。何しろ専門外ですので、至らぬ点は多いと思いますから」  そう挨拶していると、北教授のデスクの電話が鳴った。気難しい顔をして電話に出、そのまま会話を始めた。  どうやら長くなりそうなので、二人は遠慮して退出を許して貰うアイコンタクトを教授に送る。通じたようだった。気難しげな顔が一瞬弛み、阿部師長に向かって宜しく頼むという意味だろう・・・頭を下げた。  教授室を出るとすぐに阿部士長は、携帯電話――以前は病院内では電磁波が医療機器の誤作動を引き起こすので使用禁止だったが今では医療機器の誤作動が起らないことは立証済み――なので、皆が緊急連絡用に持っている。勿論マナーモードだったし、私用電話はご法度だったが。その表示を確認してから言った。 「今は患者が搬送されていないみたいだわ。緊急外来のことを説明するためにお茶でもいかが?」  北教授が一目も二目も置いている阿部師長に逆らうことは得策ではない。だが、大学病院内は全館禁煙だ。  祐樹は、心臓外科での勤務の後、地獄とも呼ばれている緊急外来にこれから勤務する・・・。医師として有害性は分かっているが、ニコチンの力を借りたかった。 「いいですよ。ただ、出来れば病院内ではなく、近くの喫茶店に行きませんか」 「それ・・・デートのお誘い?」  冗談めかして阿部師長が言った。 「阿部師長がお嫌でなければ・・・」  笑いに紛らわせてそう言ってみる。 「こんな年増でごめんなさいね」  デートうんぬんが冗談だと分かる表情でからりと笑った。  祐樹の行きつけの喫茶店内部をさり気無く見渡す。幸いにも知った顔は居なかった。 「田中先生がウチに助っ人で入ってくれるなんて、とってもラッキーだわ。まぁ、キャリアからして戦力的には不安だけれど、田中先生が緊急外来に居るってだけで看護師の士気に関わるもの」  意味不明なことを言った。 「確かに即戦力にはならないと思いますが、学べることは貪欲に学びたいと思っています。看護師の士気ってどういうことですか?あ、煙草吸ってもいいですか」 「勿論、私も吸おうっと」  彼女が出した煙草はマイルドセブンだった。タールやニコチンが多い煙草だ。それだけで彼女のストレスの度合いが分かる。 「さっきの話の続き。病院内のナースの噂話を総合して人気ランキングをしているの。田中先生がブッチギリのトップだわね。『彼氏にしたい先生』部門で。やっぱりイケメンは強い上に先生はナースの愚痴にも付き合ってくれているでしょう。『好感度』部門でもトップ。そんな田中先生がウチに来てくれることになったら、皆喜ぶわ」  苦笑して、煙草をもみ消す。 「ナースの愚痴を聞いているのは本当ですが、『彼氏にしたい先生』部門でトップなのは、風前のともし火でしょう。香川教授が着任しましたから」 「私ね、ス○ップファンなの。コンサートチケット毎年買ってるけど、急患が入って、行ったことはない。田中先生も香川先生もあのグループと趣きは違うけど、ルックスは負けていないわよ。先生ならどんな看護師だって落とせるわ。それなのに、浮いた噂がないから皆、高嶺の花だと諦めているみたい。  そうそう、香川教授ね・・・あの人も田中先生とは違った感じのハンサムさだけれど、長岡先生だっけ?あの人を連れて来た時点で看護師の評価はがた落ちね。   中には公私混同も甚だしいと怒っている看護師もいるわね・・・」  自分がベテラン看護師として(年齢的にも達観しているのだろう)見聞きしたことをそのまま伝えているのだ・・・という感じがした。  やはり、女性の目から見ても、香川教授と長岡先生はそういう関係に映るのだろうか。まぁ、お似合いのカップルだ。それも仕方ないのかも知れない。  やはり、二人はそういう関係なのだろうか。確かめるためにも阿部師長に一役買って欲しいと思った。  阿部師長の携帯が鳴った。着信番号を確認して、煙草を素早くもみ消し、二人分のコーヒー代金を過不足無くテーブルに置くと厳かに宣言した。 「さて、緊急患者が搬送されてきたわ。戦場へ向かいましょう」
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