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第二章 16
阿部師長が満足げな微笑を浮かべて祐樹を遠くから見ている。
緊急外来は警察や消防署と同じで、忙しい時は寝食も忘れて駆け回らなければならないと聞いている。だが今はどうやら閑散期のようだ。一日目にしてはツイている…と思った。
手の空いているこの科所属と思しき医師を捕まえて仕事上のコツなどを聞こうとしたが、皆は祐樹と目が合うなり、さも用を思いついたようにそそくさとその場を立ち去って行く。
考えられる理由は二つあると判断した。
一つ目は、学内での縄張り意識。これは大学が独立行政法人になった以前の因習でヨソの科の医師を何かと白眼視する。幾ら北教授が快く受け入れてくれたと言っても、その指示は現場の空気を変えることは出来ないのだろう。教授自らが命令しない限り。北教授は阿部師長に一任して以来、何も動かなかった。内心では香川教授を疎んじているのでは?と思ったが、話をした限りそういうことは無さそうだ。
自分の力でやってみろ…ということなのだろうとの無言のエールだと思うことにする。
何より百戦錬磨の阿部師長が付いていてくれるのは有り難い。北教授がフト漏らしたあだ名「ブラッディ・エンジェル」には聞き覚えがある。
この室内では誰よりも実力と権力を持っている人間。救急外来はベッドが空いていなければ救急車の要請を断ることが出来る。しかし彼女は拒否したことがない。DOA患者すら。
ベッドに空きがなければ作れば良いという考えで、彼女の指図通りにベッドは数を増やすこともある。当然救命率は低いが、それは彼女の責任ではなく、たらいまわしにされてきた患者の命が保たなかっただけのことだ。
そうして彼女は2万人の命を奪い、3千人の命を救った「血まみれの天使」だ。これだけのキャリアを持つ看護師は日本にそうはいないだろう。医師の処置が悪ければ遠慮なく口を挟み、結果的に助かった患者の数が3千人。
その人が自分の手技文句をつけなかったのは「的確な判断だ」と彼女が思ったから、だと彼女の笑顔が証明してくれているような気がした。
そして理由の二つ目。今自分に群がっている看護師達の熱い視線だ。自分は女性に興味はないと言いたかったが、そんなことは言えない。医師たちが少し怒るのも無理はないのかもしれない。
手術の出来ばえを阿部師長に聞いてみたかったが、無理に抜け出さなくとも、彼女が必要だと思えば、例の彼女専用の個室に呼ばれるだろう。
「井出さん、さっきはヘルプ有り難うございます」
後ろの方にいた彼女に声を掛ける。彼女の道具出しのタイミングは完璧だった。道具出しの呼吸が上手く噛みあわないと手術のテンポが掴めず、失敗してしまうこともある。まずはお礼を言いたかった。
「そんな…私なんて…」
笑顔を向けた途端、彼女は赤くなってうつむいた。
それが合図だったかのように取り囲んでいた看護師達の中で客観的に見て一番美人だろうな…と思う女性が声をかけて来た。あまり嬉しくないが。
「心臓外科の田中先生ですよね。お噂はかねがね。私は赤川麗子と言います。宜しくお願いします」
本人が多分一番美しく見えると計算している角度に顔を傾げ、挨拶してきた。
そこから自己紹介の嵐だった。井出看護師は技量で、赤川看護は最初に声を掛けてきたので覚えた。しかし他の女性達の名前は覚えきることが出来なかった。これが患者だったら一回で覚えるが。看護師の自己紹介が一通り済むと、阿部師長がこちらへやって来た。
「心臓外科の田中先生という名前は覚えたわね。これからしばらく心臓外科の香川教授の要請で夜勤だけこちらに出向という形になった。ここは初めてだから色々と教えてあげてね」
そう紹介すると、彼女は1人で個室に消えた。
「先生はしばらくこちらに夜勤でいらっしゃるんですね。嬉しい」
もし、男性が100人居たら99人までは恋に落ちるだろう微笑を浮かべ、赤川看護師は言った。自分は残りの1人だ。が、看護師は医師と違って縄張り意識が少ない。他の科のことも良く知っている。全く女は恐い…が、今回はそれを利用させて貰うことにする。
「こんな美女がたくさんいる環境の中での夜勤は楽しみです。どうか宜しく」
そう言ってみると、皆から声なき悲鳴のようなものが上がる。
「そんな、我々も田中先生が来て下さるなんて夢のよう。ね、井出さん」
赤川看護師が言った。
「はい…田中先生は皆憧れ…て…います…か…ら」
また真っ赤に頬を染めてうつむく。
「憧れるほどのことはないと思うけど。だって香川教授の方が俺のような研修医より将来ははるかに有望だし、顔も良い。あ、さては俺をおだてて紹介させようとかですか?」
香川教授と長岡先生のことを知りたくてわざと教授の名前を出す。ざっくばらんの口調の方が本音を聞き出せるかと思った。
「香川教授も確かに顔はいいですけど、先生の方も全く同じレベルか、もしかすると少し上かもです。
背だって先生の方が高いですし。看護師全員の好感度は先生がダントツ、トップです」
「でも、教授総回診に立ち会ったら好感度もきっと上がる」
教授総回診は香川教授の意向で週に一度と決められていたことを思い出した。金魚のフンのように付き従う自分の姿を想像し軽い屈辱を覚える。
「でも、香川教授は決まった方がいらっしゃいますもの。私達は話しかけることすら出来ないです」
「決まった方というと」
答えは見当がつくが、しらばっくれて聞いてみた。
「長岡先生です。香川先生に惚れてアメリカでのキャリアを捨ててウチの病院に来られたのでしょう。結婚も間近だと専らの噂です」
結婚…そこまで話が進んでいるとは。だが、所詮ウワサだ。ウワサは尾ひれが付くものと世間でも言うが、大学病院ではメダカほどのことが鯨のようになることもあるので注意が必要だ。
「結婚ってどこからその話を?」
「ここだけの話、大○百貨店のテ○ファニーで指輪を二人で選んでいらっしゃるのを偶然通りかかった皮膚科の看護師が見ていたんです」
赤川看護師の綺麗に塗られたピンクの唇がかすかに歪んでいる。彼女も香川教授を密かに狙っていたに違いない。
それを聞いて自分でも表現出来ない感情の揺らぎが祐樹の中に芽生えた。
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