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第二章 19
「次、小倉さんの担当医」
香川教授の声が微妙に掠れているのは気のせいだと思う。他の担当医を呼ぶ時は普通の声だったので。
あるいは、外科医の常であまり話さないために喉がかれたのか。
「はい、私です」
すかさず付き添いの看護師が紙のカルテを差し出す。その間に香川教授の傍に近寄った。
彼は眉間にシワを寄せてカルテを読んでいる。読んでいる傍で――何を言われるか――とドキドキしながらも、ふと漂ってくる彼の香りを感じた。
院内規則により、医師や看護士は香水を付けてはいけないことになっている。が、他の科では遵守されているとは言いがたい。院内のウワサでは、精神科の女性医師は診察室に入った途端、シャネルの――何番だかは忘れたが――度を過ぎた匂いに患者さんは圧倒されるそうだ。少なくともそういうウワサだった。
外科の場合は退官された佐々木前教授の薫陶で香水を付ける人間は居ない。
香川教授も別に佐々木先生に倣ったわけではなさそうだが、香水ではなくもっと自然な香りだった。
シトラス系の香りがほんのりと漂ってくる。
シャンプーとボディソープを同じラインに統一しているのだろうか。白衣に染み付いた消毒薬の匂いと妙にマッチして何となく心地良い。
その香りにずっと囲まれたくなる…と思っていると、こちらを見る香川教授の視線に気付いた。
好戦的で挑戦的な眼差しだった。
――ああ、来るな――
との予想通りだった。カルテを長く細い指でイライラと叩きながら――そう言えばまた神経質に震えている――
「この文字は新しい符号か?私が日本に居ない間に出来たものか?」
該当箇所を見て、思わず赤面してしまった。
忙しさの余り走り書きをし、電子カルテに正確な情報を打ち込んだものだったからだ。佐々木教授は患者の前では詳しいことは聞かず、紙のカルテは重要視していなかったからこその油断だった。
「申し訳ありません。これは…」
患者の前で説明しようとすると、その方が余計に患者の不安感を煽ると判断したのだろう。
「弁明は後で聞く」
冷たい一瞥の後、小倉さんと話し出した。先ほどの凍てつく視線とは打って変わって優しげな口調だった。
後で何を言われるか、大変不安だったが、ツイ小倉さんとの会話の時間を計ってしまった。25分。教授総回診では驚異的な長さだった。
教授総回診は様子見と面子保持の面が多いが香川教授は違うようだった。今のところ、祐樹の担当は小倉さんだけなので、あとは足軽のように付いて歩くだけだ。重篤な患者が多い3階を終え、4階は1人にかける時間が少なくはなったが誠実に受け答えをして居る。
5階は特別診療患者――要するに香川教授に執刀して貰いたいと切望し、そのためには金に糸目はつけない患者だ――が集まっている。さぞかし時間をかけるのだろうな…と思っていたら、意外なことに3階の患者と同じくらいの所要時間だった。
特診患者は、ベテラン医師の受け持ちだ。祐樹などの出番は全くない。遠くから見学だけしている。カルテを見、誠実な笑顔で患者と接している。フト気になったが手も震えていない。この差の原因は何だろうかと思う。
教授総回診が終わり、香川教授は教授室へ、医局の皆は医局へと散っていった。
医局ではつかの間の休息時間が訪れる。そこに院内電話が入った。
柏木先生が取り、皆に知らせる。
「香川教授からだ。午後4時にカンファレンスルームにスタッフ全員集まれとのこと」
新任教授は意外と働き者らしい。医局にどよめきが起こる。
祐樹は内心で溜め息をついた。少し宿直室で休もうと思っていたのに、会議で休息時間がなくなる上、先ほどのカルテ不備をネチネチ言われることは想像に難くない。
その後、地獄の救急医療室勤務だ。いつまで自分の忍耐力と体力が保つか、自信は全くなかった。
辞表でも書こうかと思った。
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