第二章 22

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第二章 22

 あらかじめ書いた携帯の電話番号を用意していたのだろうか…という点が気になっていて、五階の教授執務室のフロアで立ち止まって考えていた。  もちろん、深夜の緊急外来勤務で疲労が蓄積していたせいもあり、動作が緩慢になっていたせいもあるが。  すると、勢い良く教授室のドアが開いた。教授に昇進出来るのはは政治力に長けているか、著しい実績のある人間ばかりだ。当然平均年齢は高い。香川教授以外は皆50歳以上だったハズだ、多分。  准教授やそれ以下の人間が教授室に入る時は、いつも走り回っているような落ち着きのない人間でも最上の礼儀を払う。そうでなければ教授の覚えも悪くなるので当然のことだ。だれしも教授の不興を買いたくはない。  このフロアにはいつも静寂が漂っている。  そんな均衡(バランス)を破ったのは誰だろうと扉の方を見ると、香川教授だった。  意外なことにいつもの冷徹な表情ではなく祐樹には見せたことがない表情を浮かべている。笑顔でもなく、怒りでもない…何と表現していいか分からない複雑な顔をしていた。強いて言えば表情の選択に困り果てた顔というのが妥当だろうか。  今の今まで廊下の中央に立っていた祐樹だったが、香川教授に何か突発的な呼び出しでもかかったのであれば、きっと急ぐに違いないと廊下の隅に寄って道を空けた。  自分は香川教授の覚えがめでたくないことは重々承知していたので。  外科医はもともと足は速い。緊急で呼び出されることも多いのが理由だ。  香川教授も早足で歩いて来たが、祐樹の前で立ち止まると怒ったような顔をした。どうやら話はまだ終っていなかったらしいと察した。が、言葉を発しない。こちらが話さなければならないなと判断した。  ただ、こちらは話すことが思い浮かばない。仕方がないので会釈をすると祐樹の前で立ち止まり、いつもの彼よりも早口で言った。 「私が覚えている日本の習慣では、電話番号を教えて貰ったら自分も教えるというのが常識の有る人間だと思っていたが…私が日本を離れてからその辺りは変わったのか?」  ぶっきらぼうにそう言われた。確かに自分は携帯の番号を教えなかった。それは香川教授が業務用で教えてくれたものだと思っていたので。 「すみません。習慣は変わっていません。思い至らず失礼致しました」  そう言って、白衣のポケットから筆記用具と製薬会社のくれた大型の付箋紙を取り出して自分の携帯番号を書いた紙片を手渡す。  すんなりと長い指がその付箋紙を取り上げ、見てからポケットにしまった。その動きは優雅と呼びたいほど滑らかだった。  人気のない廊下で二人きりでいるのも気詰まりだ。何か話しを…と思うが、廊下で術式に関する話をするのも不自然だ。当たり障りのない話を考えるが連日の昼夜に亘る激務のせいで頭の回転が鈍ったのだろうか、思いつかない。  その時フト思い出したのが、病院内の噂話だ。 「先生は、〇ィファニーで指輪をお買いになったのですよね、長岡先生とご一緒に」  その言葉を聞いて香川教授は青ざめる。 ――地雷を踏んでしまったかもしれない――  そう思うが後の祭りだ。  唇を数回開きかけて閉じるという動作を繰り返した後に、低い声で返答があった。 「……何故、それを……」 「病院内で知らない者は居ないと思いますが。教授は噂が広まる速度をご存知なかったのですか?」 「とにかく、おめでとうございます」  一抹の寂寥感と共に祝いの言葉を述べる。  が、数分の沈黙があった。 「………ああ、彼女に伝えておく」 ――本人達は極秘の積りで、誰も知らないと思っていたのだろうか?と思った。何しろ医学部長の齋藤先生のお嬢様との結婚話が出ている人だ。極秘にしたいのも分からなくはない――。  そう思っていると、沈んだような足取りで挨拶もなしに、香川教授の姿が教授室に消えた。出てくる時とは対照的に静かに扉が閉まる。
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