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第一章 5
「では、今夜はこれでお開きということで」
畑仲が眼鏡を外し、目の疲れを癒すように目をマッサージしながら言った。
「お疲れ様でした」
二人に向かって深々と頭を下げる。上下関係にうるさい職場だ。
「あ、田中君、君はこれから忙しくなるだろう。しばらくは当直から外しておくから。
…理由はそうだな…君の母上の病気が悪化したというのではどうだろうか」
山本が言った。実際、実家に居る母は腎臓に持病が有る。この大学病院ではないが他の田舎では一番大きな病院に通っている。この病院にも誘ったが、「息子が勤務している病院には通いづらい」との理由で却下されていた。
山本先生は母の病気のことまで知っているのだろうか。「悪化」という言葉からは知っている可能性が高い。他の病院に通院している母のことは誰にも言っていなかった。
どこからそんな情報を…と、ふと思った。
「はい、有り難うございます。お言葉に甘えて、医局員と研修医の本音を探ることに専念します」
退室し、人気のない廊下を歩く。山本先生への仄かな疑惑が芽生えた。
研修医は研修医同士で固まることが多い、医局では最下層に位置するのだから当然だ。だから研修医がどう思っているのかを探り出すのは簡単と言えば言える。しかし、中堅の助手クラスともなると、山本先生の方が本音を聞きだしやすい。それを自分に振ってくる辺り彼は彼で思惑があるのだろうか。
その辺りの事情はおいおい分かって来るはずだ。山本先生の動向も頭の隅に留めて置くことにした。
自宅マンションに戻る。
3DKの部屋は当然真っ暗で、電気を点けて途中で買って来た、コンビニの弁当と野菜サラダで遅い食事を摂った。医者の不養生と言われないように、野菜だけは毎日摂取するようにしている。
一つの部屋は勉強部屋で、論文作成のためなどに使うパソコンが机の上に置いてある。壁際の本棚は医学書で三面が埋まっている。もう一つの部屋は祐樹が書斎と勝手に名づけた部屋で、こちらは図書館のように本棚が林立している。
それと寝室だ。こちらにも本棚は有るが趣味の本しか置いていない。趣味の本とは言わずと知れたその手の嗜好を持つ人御用達の雑誌などだ。
今夜は疲れていて、雑誌を読むこともせずにベッドに寝転がり、これからどうすべきか考えた。
まずは当直のない研修医をさり気無く飲みに誘って、彼らの本音を聞きだすしかないだろう。山本先生が当直なしにしてくれたのは有り難かった。それから助手クラスの本音を聞く。こちらの方が神経を使うが、仕方のないことだ。
そんなことを考えているといつの間にか眠ってしまったらしい。目覚まし代わりにしている携帯のアラーム音で目が覚めた。
一日の勤務が終わり、職員通用口で煙草を吸って休んでいるフリをしながら今日、当直のない研修医が出てくるのを待つ。
誰かの靴音が響いて来た。下心が有って誘うので緊張する。
(自分と親しい研修医だと良いが)
そう思っていると靴音の主は黒木准教授だった。
慌てて煙草をもみ消し、頭を下げる。
「お疲れ様でございます」
挨拶すると、黒木先生は温和な表情で頷き、意外なことを言った。
「仕事は終ったのかね。これから呑みに行く積りだったのだが、君も一緒にどうかな」
黒木先生と二人きりで呑んだことはなかったので驚いた。失礼なことだとは分かっていたが顔をまじまじと見詰めた。
彼の顔に憔悴の色を認めた。顔色も冴えない。一瞬で判断した。
「喜んでお供させて頂きます」
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