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第一章 6
行き先は当たり前のことだが、ゲイバーではなく落ち着いたバーだった。繁華街に有ったが、目立たないように「会員制」と書いてあった。
店内にはホステスなどは居ず、恐らくマホガニーだろう、落ち着いた雰囲気の店だった。
雰囲気は祐樹が常連のゲイバー「グレイス」と良く似ている。だたし、ボックス席同士の間隔は広く取ってある。
いかにも会社重役などが商談で利用するような雰囲気だった。恐らくは、店側も良く分かっていて、ここで重要な話をさせる場でその後商談成立となった暁には、ホステスの居る高級クラブに流れるといった筋書きだろう。
黒木は自分のボトルを持って来させた。バーでは珍しいカルバドスだった。
「このリンゴのブランデーが大好きでね。フランス料理の最後に供されるのが普通なんだが…君がもし苦手なら他の物をオーダーするかね」
アルコールは何でも飲める祐樹はカルバドスも嫌いではない。
「准教授と同じものを」
そう言った。黒木は胸元のポケットから煙草を取り出して祐樹に断った。
「煙草吸ってもいいかい。もっとも君もスモーカーだったのだね」
「ええ、もちろん。ただ私は普段はあまり吸いません。イライラして居る時などたまに吸うだけです」
世の中では禁煙がブームだが、意外と医師や看護士にスモーカーは多い。煙草には神経の緊張を取る効果も有り、手術など神経を使う仕事が終れば吸いたくなる人間は多い。祐樹は長時間のオペの後に吸うことは有った。ただ、ニコチン依存症までは行っていないと自己判断している。
「僕もそうだ。…実は今日、佐々木教授に呼ばれてね」
煙草を一本吸い、ブランデーグラスを手で温めて香りを楽しみながらも顔色は相変わらず冴えない。
「宜しいのですか。私などにこのような話をされて」
「もちろん、ここだけの話だ。しかも君は他の医局員と違って口が堅い」
それは本当だった。自分がゲイなので、他人の噂話――特に女性関係――は興味はなかったし、噂をすれば自分に跳ね返って来るようなので、あまり医局でも無駄話はしたことはなかった。
黒木先生がどう思っているかを聞くチャンスなので、真剣に耳を傾ける。
「佐々木先生の退官までに、彼の仕事振りを申し送りたいとの事だった。香川先生、いや次期教授は4月にならなければ帰国出来ないらしいので、一番佐々木教授の仕事振りを知っている僕に白羽の矢を立てたらしい」
「つまりは、直接の引継ぎはなしということですか」
「そのようだね。ただ、香川先生に引継ぎが済んだら、僕はどうなるかは分からない」
ぽつりと言った。
「出来れば大学に残りたいが…、准教授のポストから離れる可能性も捨てきれない。全ては香川先生次第だ」
その言葉を聞いて、昨日の密談が思い出される。きっと黒木先生も同じことを考えているか、医学部長に仄めかされたのだろう。
「香川先生も香川先生ですよ。佐々木先生から直接引き継ぎをするのが筋ではないのですか」
「彼はまさしく天才だ。その天才の言うことなのだから、私のような凡才には計り知れない。天は二物を与えずと言うが…彼は頭脳と天才的なメス捌き、そして顔もいい。三物を与えているな。まぁ君も頭脳や顔では負けていないか…」
自嘲じみた笑いを浮かべた黒木だった。
確かに黒木先生は容姿に恵まれているとはお世辞にも言えなかった。おまけに医師の不養生でメタボリック症候群の一歩手前だった。
「そんなに凄いのですか、香川先生のオペの腕前は」
少し、「顔が良い」と言われたところで、突っ込んで聞いてみたかった。しかし、それよりも、彼のオペのことや黒木先生がこれからどうするのかが知りたくて質問してみた。ここは職務優先だろう。
「香川先生のオペの様子は学会で放映された。人間にこんなことが出来るのかと肝を潰したよ。聞きたいかね」
「もちろんです」
そう言って姿勢を正した。
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