第一章 7

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第一章 7

「ここに資料がないのが残念だ。アメリカの心臓外科学会の特別に披露された香川先生のオペは確かに素晴らしかったよ。まさに神業と呼ぶに相応しいものだった」  先ほどの憂い顔が払拭されて憧れのような表情になった黒木は言った。自分のような研修医とは違って彼には国際学会に出席する資格を持っている。 「患者は糖尿病と、腎不全も併発している。心臓もひどいもので強度の狭心症だった。つまり、いつ心筋梗塞を起こしてもおかしくない部分が冠動脈に四箇所も有った。君がもし担当医ならどう判断するかね」 「オペは無理でしょう。内科に回すしかありません。ニトログリセリンを常時点滴で補給し続けるより延命の道はないと思われますが」  何となく学生時代を思い出した。教授の口頭試験を受けているようだった。 「そうだ。冠動脈にコレステロールが詰って血管自体が弱っていた。100人の心臓外科医の99人がそう答えるだろうな。『この容態では手術は無理だ』とね」  黒木の言葉に祐樹は先を察した。 「香川先生は違ったと?」 「そうだ。手術まで自分のスタッフの内科医に内科的な準備をさせた上で手術を選んだ。それはこうだ。狭窄(きょうさく)した部分をまたいでバイバスを作る。しかも四箇所全部にだ」  冠動脈は太い。どこにそんな血管が?と考えた。数秒後答えに辿り着いた。    鎖骨の後ろと太ももの血管と胃の血管を上手く取り出せば理論上の問題はない。しかし現実は実践の困難さに満ちている。 「まさか内胸動脈二本と大伏在静脈と、大網動脈を使った…のですか」  黒木は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。 「その通りだ。人工心肺の助けを借りず何と五時間でオペは終了した。現在その患者は日常生活に支障もなく暮らしているらしい。それまで病院のベッドで俗に言うスパゲッティ症候群となっていた患者が…だ。」  信じられない程の手際の良さと思い切りだ。特に医療訴訟の多いアメリカで――最近は日本でも医療訴訟は増加傾向にあるが――そんなことが可能なのか。喉の渇きを覚えて、カルバドスを流し込む。  恐らく、日本の心臓外科医では不可能な術式の手術だ。いや、世界規模でも二の足を踏む心臓外科医が居ても、誰もが納得するだろう。心臓外科医ならば。 「信じられない術式です…香川先生はどこでそれを学んだのですか?」 「アメリカで独自に研鑽(けんさん)した結果らしい。それを同門のよしみで齋藤医学部長が口説いたらしい。最初は日本に帰国する気は無かったようだが、自分の担当する患者が終り次第、日本に戻って来ることを約束させた。流石に齋藤医学部長の目の付け所は違うと僕は思ったね。学会も香川先生は出席せず、手術の様子を放映しただけだったが、細くて長い指がまるで芸術家のようにしなやかに動いてオペをこなして行くのを見ているとそれは感動した」  その時の様子を思い出したのか、眩しげな目つきをする黒木先生に、自分も見たかったと思った。しかし、持ち前の反抗心が頭をもたげる。 「では、先生はその憧れの香川先生の下で働こうとは思われないのですか?」  「憧れの」という箇所を強調して祐樹は言った。黒木は苦笑する。 「噂だがね、香川先生は天才肌で、他人と協調する気がないというか…とにかく、上司にするには問題がある。だから香川先生に引継ぎを終えたら、その時考えることにするよ」  天才肌で協調性がないというのは情報通の人間が口を揃えて言う香川先生評だった。果たしてそんな人間と上手くやっていけるのかどうか祐樹も自信が無かった。黒木は香川先生のことに詳しいらしい。この際、出来るだけの情報を引き出しておくことにする。 「何故、それ程までに腕の立つ医師がウチの大学に残らず、アメリカに渡ったのですか」 「それも分からない。特に香川先生が在学していた時の教授は佐々木先生だし、あの人はそんなに厳しい先生でもないし、ましてや教え子の成長を喜ぶタイプの教育者でも在る。当時は可愛がって目をかけていたよ」  香川先生が渡米した理由も調べておいて損はないと判断する。  しかし、天才肌の人間が教授だと色々やりにくいことだけは確かだ。手術の腕は認めることにして、やはりここは黒木准教授に教授になって欲しいと思った。  病院経営のことは直接自分に関係ない。確かに私立の病院で経営不振のため閉鎖という話は良く聞くが、国立の大学病院に勤務する限りはその心配も遠い世界のような気がしていた。  恵まれた腕を持つ心臓外科医・・・それに歳も近い。反抗心しか感じない。まぁ、腕の良さは認めざるを得ないが・・・そんな人間が上司になるのは真っ平だと思った。  今まで通り、アメリカでゴッド・ハンドの異名で患者を集めれば良い。そう思って、ブランデーをビールのように喉に流し込んだ。
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