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第一章 1
田中祐樹は最高に腹を立てていた。
今朝滅多にないことだったが、医学部長が医局へやって来て、一堂の前でこう言い放ったからだ。
「諸君も知っての通り、大学病院も独立採算制を取り入れている。勿論我々国公立大学付属病院でも同じことだ。月末で退官される佐々木教授の後継者は前例で行くと黒木准教授だが…それでは業績が伸び悩むと大学病院も大学も判断した。だからこの際海外から教授を指名することにした」
医局にざわめきが広がる。祐樹はそっと黒木先生の方を気遣わしげに見た。彼は笑顔で医学部長の話を聞いている。内心を覗わせる人でもなく、外科医としては珍しく温和な性格だった。
「どなたですか」
そう聞いたのは、とある先輩だった。
医学部長は会心の笑みを浮かべるとおもむろに告げた。
「香川聡教授だ。すでに内諾済みだ」
その言葉に先ほどとは桁違いの熱を帯びたざわめきが走る。
「香川教授の実績は日本のみならず、外国でも高い評価を受けている。手術でも論文でも。そのことはもはや我々には常識だ。我が医学部出身であることから渋る先生を説き伏せて招聘した」
皆が頷く。
――香川聡…母校はたしかにこの大学だが、博士号はアメリカでも取得し、活躍の場はアメリカが中心。心臓バイパス手術では「ゴット・ハンド」と畏敬の念を持って呼ばれている。ヨーロッパだけでなく中東の石油王までが彼の手術を受けたいがために世界中から患者が彼の元に集まる。論文も精力的に発表していた。その論文は自分が読んでも感服するレベルの高さだった。
しかし、彼は国際学会にも「手術を優先したいから」という理由で全く出席せず、彼の論文を他の者が読み上げるといった異例の扱いを受ける。
どんな鼻持ちならない人間かと思った。
彼からすれば日本の大学教授のポストに固執しなくとも良い立場だ。
黒木先生の気持ちを察してしまう。というのも、祐樹は黒木先生に目を掛けて貰っている。だから黒木先生が教授に成れば自分の活躍の場が広がると踏んでいた。それがトンビに油揚げを攫われた形になった。香川という教授ではそうも行かないだろう。しかも香川は学術誌によると29歳だった。ちなみに写真は掲載されていなかった。
祐樹と年齢はそう変わらないのに、向こうは教授、こちらはしがない研修医…そう思うと軽い憎悪さえ感じた。黒木教授という線が消えると自分までが冷や飯を食う可能性も有る。また、大学も大学だ。今まで黒木准教授には散々体力的に無理な手術をさせたことなど忘れて外部から教授を呼ぶとは。
公憤と私憤が込み上げる。
気分転換が必要だと思う。
今日は当直ではないことを良いことに飲みに行こうと思った。こういう時はリラックスして、そして楽しむことが出来る店が良い。
医局の連中と一緒なのも気が重い。香川先生を歓迎する人間もきっと居るはずだ。今日はその話題には触れたくない。
完全に仕事から切り離された場所が良い。そう思うと行き先は決まった。常連になっている、自分と嗜好が同じ人間しか行かない特殊なバーだった。
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