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目が合った。彼女は、辺りで一際存在感を放つ大木に背を預けていた。表情からは彼女の感情を読み取れない。驚いた様子も、こちらを訝しむ様子も感じられない。精巧に造られた蝋人形だと言われたら、納得してしまうほどだろう。それ程までに私の知りうる全ての熱のある人間とは、かけ離れて見えた。 だが当時の私は、その異質な女性の美しさに脳髄ごと惹き付けられた。立ちこめる腐葉土の匂いも、耳障りな蚊の羽音も、一切の五感が遮断される。私の脳内では、テレビで観たことのある如何なる芸術も陳腐に成り下がる。ミロのヴィーナスよりも、グランド・オダリスクよりも、果てしの無い美しさを感じたのだ。 息苦しい。呼吸すらも止まっていた。群がる鯉が酸素を欲するように、かろうじて口を開き喘ぐ。私の脳は、そうして漸く五感を取り戻す。 充分に酸素が供給された脳は、やがて理解する。私は今、冒険が終わるかもしれない瀬戸際に立っていると。 ーーどうしよう。逃げようか、説得しようか...... 「お姉さん、ここで何をしているの?」 私は、目の前の女性に話しかけることにした。私の冒険は終わるかもしれない。だとしても、目の前の女性のことを、少しでも知りたいと思ってしまったのだ。こんな日に、こんな場所に居る理由を知りたいと思ってしまったのだ。もしかしたら、私と同じように超常に魅了され、同じ目的でここに居るのではないかと夢想した。もしそうだとしたら、どんなに嬉しいだろう。 「......空をね、見に来たのよ。多分、君と同じように。」 彼女は、梅雨の鬱陶しい空気を払うような澄んだ声色で応えてくれた。 雲間から射した光が彼女を照らす。 彼女の顔は少しだけ微笑んでいたような、そんな気がした。
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