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「これはこれは、クロエ・ホーン大佐さま!」
まさか、そんなひとがくるとは思わなかった女将さんの声は店中に響いた。
三階の、隣の部屋から漏れ聞こえる、ほとんど虐待を受けているような悲鳴と音がつらくて耳を塞いでいたぼくにも聞こえるくらいに。
聞こえなかったら、ぼくは部屋を出ようとは思わなかったし、いまもあの場所にいたと思う。
「……」
ぼくは、まるで導かれるように部屋を出て、何人かの客とすれ違いながら階段を降り、踊り場から店の玄関ホールを覗いた。
養母の落胆したような声が聞こえた。
「ここもいっぱいか」
「えぇ、まぁ、そうなんですけどね……。もう少し、もう少しでもお待ちいただけたら、誰かは空くんですけど」
「ほかの客をとったあとで疲れているだろう? すぐにでも休みたいだろうに、わたしにつきあわせるのは申し訳ない。今晩は羊でも抱き締めて寝ることにする……」
「――あのっ!」
とっさに呼び掛けていた。
なんだか、絶対にこのひとを帰してはいけない気がしたんだ。
「――子ども?」
いぶかしむような養母の声が聞こえたけれど、構ってはいられなかった。
「ぼくがいます、ぼくはまだ誰の相手もしていません!」
階段を駆け下りてきたぼくを、女将さんは大慌てで、その豊かな体の影に隠そうとした。
養母には、ここが普通の娼館ではなく、男娼――それも少年専門の店だとは説明してなかったらしい。
「フレディ、おまえ……」
ちらちらと養母のようすをうかがいながらぼくを見返す女将さんの気持ちは、子ども心にもぐらぐら揺れ動いているのがわかった。
明日の客――つまりは店の信頼のために養母を断るか、金払いのいい客だと評判の養母に恩を売り、常連にしてしまうか。
なにかひと押しあれば、いまの女将さんは簡単にどちらにでも転ぶ。
「女将さん、ぼくはだめですか? 明日のご予約があるのはわかっています。でも、このままお返ししては……」
ぼくは養母を客にしたいがために、必死で訴えた。そこへ養母の声が重なる。
「子ども相手ならなおさらだ。今晩は羊でも抱いて……」
「――よござんす!」
女将さんは、養母に最後までいわせなかった。
突然おおきな声でそういうと、ぼくの両肩に手を置き、
「わかった、それなら今日を、おまえの店出しの日にしよう」
ぼくにむかってうなずいたあとで、女将さんは養母を振り返り、ぼくを前に押し出した。
「この子がおりました、大佐さま。店出しの日を明日に控えておりましたが、今日、あなたさまにお預けいたします」
「……」
女将さんに倣うように養母に視線を送ったぼくは、そこではじめて、のちにぼくの養母となるクロエ・ホーン海軍大佐を見たんだ。
外国人と見間違えてしまうほどの黒い髪は、そのころはとても長くて、まだ船から降りたばかりでろくろく手を入れてなかったせいか、ずいぶんごわついて見えた。
潮にさらされ続けた軍服は薄汚れていて、むき出しの手と肌も潮焼けして赤くなっていた。
養母は女性にしては長身だし、規律正しい海軍で十代のころから戦ってきたせいか、男性と並んでも見劣りしない堂々とした風格がある。
その彼女が、深い青色の目を軽く見開いてぼくを見返した瞬間、
――ぼくは、生まれてはじめての恋に落ちたんだ。
胸がどきどきして、息が苦しくて。
天井にたくさんの蝋燭が灯されたシャンデリアがあるとはいえ、仄暗い玄関ホールの中に立っているのに、なぜか目が、ちかちかと眩しくて。
思わず養母の視線から逃げるように顔をそらしてしまったけれど、でも、もう一度彼女の顔が見たい。見つめていたい。そう思って、顔をあげようとしたとき、
「……トミー?」
彼女の口から、知らない誰かの名前がこぼれたんだ。
……そうだよ、きみのいうとおりだ。でも、このときのぼくは、それを知らない。
彼女がぼくを見て、ぼくじゃない誰かの名前を呼んだこと。それだけで、まるで天国から地獄に突き落とされたかのような衝撃を受けたんだ。
ショックのあまり体が強張るぼくに気づいたのか、女将さんが、ふたたびぼくの肩を抱くようにして訊いた。
「大佐さま、この子はフレディと申します。どなたかとお間違えでは?」
「あ、ああ、」
養母は、まるで過去から急に現在に引き戻されたかのように、一瞬だけ驚いた顔をすると、ごまかすように苦笑いを浮かべた。
「ほんとうだ、似ているけれど、別人だ」
そういって少し体を前に倒した。ぼくと、視線を合わせるために。
「……っ!」
思わぬ顔の近さに、ドキッとした。
誰かと間違われただけで強くショックを受けたくらいなのに、こんなに間近に顔を寄せられたら、頭に血がのぼって失神しそうだった。実際心臓がひどくバクバクしていたのをまだ覚えてる。
養母は、ちいさな子どもに接するように――事実、そのときのぼくは、彼女より二十四も年下で、ちいさな子どもでしかなかったのだけど――笑いかけてきた。
「フレディ? フレデリック、かな?」
「ア、アルフレッドです、レディ」
「へえ。綺麗な発音だ。歳は?」
「十歳になりました」
「十歳か。ますますトミーとおんなじだ」
――トミーとおんなじ。
バクバクしていた心臓の音が、途端、おとなしくなった。
ぼくは、ぼくを養母に買ってもらいたかった。けれど、養母にとってぼくは「トミー」という名前の、ぼくとおなじ歳の少年の代わりでしかないことを、あらためて思い知らされたからだ。
……うん、だから、そのときはそれを知らなかったんだよ。せっかちだな、きみは。
だいたいね、きみはほんとうにひとの話を聞かなさすぎる。話のはじめだけちょっと聞いて、すべてをわかったように思って勝手に動きすぎるんだって、ずいぶんぼくは注意したよね?
……はいはい、おっしゃるとおりです。
それじゃ、続けていくから、十歳のぼくの気持ちにツッコミを入れるのはやめてくれ。
それからいくつかの質問をされたけど、なんて答えたのかは覚えてない。
でも、養母には満足いく答えだったんだと思う。
「――女将、気に入ったよ、この子を買おう!」
そういって、綺麗に梳られたぼくの髪を、くしゃくしゃと乱暴に撫でたから。
おまけに、
「この子を、今日から一週間部屋ごと借り切ったら幾らになる?」
そんな想定外の質問まで口にしたのだから。
ぼくも女将さんも、明日の予約があるから、養母の相手は今晩ひと晩のつもりだった。
なのに、養母は複数日の貸切を申し出てくる。
女将さんはあからさまにうろたえたあとで、なんとか金額を口にした。
「……そのくらいでいいのか? やっすいなあ!」
その養母の言葉に、女将さんどころかぼくまで目をむく羽目になった。
だって、提示した金額は、当時でも法外な金額だったんだ。怒って訴えられても仕方ないくらいの。
驚きのあまり声も出ないぼくらの前で、彼女はにこにこと笑いながら、
「クロティルドとか」
一応説明しておくと、クロティルドというのは、当時、異国の王さまに国庫をつぶすほどの金の延べ棒を山積みにさせてようやくひと晩相手を務めたくらいの、もっとも高額な高級娼婦だったひと。
世の中に、美人はたくさんいても、絶世の美女と呼べるひとは、たぶん、彼女しかいないと思うな。
「ルクレーシャとか」
このひともやっぱり高級娼婦。
噂では、他国の王女さまだったらしい。そこで、その元王女と枕を共にしてみたい男たちが競ってお金を釣り上げていったせいで、何人かが借金苦に首を吊ったことがある。
いかにも外国人という容貌と品の良さが、いつまでも印象に残るような美人だったよ。
「マーゴットとか」
彼女ももちろん高級娼婦だけど、クロティルドやルクレーシャにくらべたら、ちょっと方向性が違う。
彼女の最初の恋人とふたりめの恋人が兄弟でね。かわいそうなことに、ふたりともを、付き合いはじめてすぐ流行り病で亡くしてしまって。おかげで彼女と寝た客は必ず死ぬという悪評が立ってたくらいなんだけど、いまは身受けされて、双子の女の子も生まれて、家族四人でおだやかに暮らしてる。儚げで、可憐なひとだよ。
……そうだよ、養母の相方は、たいていが彼女たちだったんだ。
養母は、船を降りるたびに、当時の三大高級娼婦を買い上げていたんだ。信じられない浪費家だよね。
その信じられない浪費家は、胸のポケットから小切手とペンを取り出すと、さらさらとペンを走らせる。
「彼女たちにくらべたら、全然安いな。男だからか? それとも、子どもだから?」
そういいながら差し出された小切手には、法外ないい値がきっちり書き記されている。
質問にはあいまいに笑って、震える手で小切手を受け取った女将さんの目は、もう小切手の上に並んだ数字に釘づけだった。
だから、明日の予約について言及したのも養母のほうだった。
「……そういえば、このフレディには明日、予約が?」
そこではじめて女将さんは正気に戻った。
女将さんとしては、今晩ひと晩で帰ってもらうために法外な値段を口にしたのに、あっさりと小切手を用意されてしまって、どうしていいのかわからない状態だったと思う。
顔が一気に真っ青になったし、陸に上がった魚のように口をパクパクさせていたしね。
そこに養母は、「海の女神を誑し込んだ」といわれる笑顔を女将さんにむけて、またしても別のちいさな紙を差し出した。
「……こ、これは……?」
「わたしの弁護士だ。財産のすべてを管理してくれている。もし明日のお大尽がなにかいうようだったら、彼に頼んで、金を出してもらうといい。相手のいい値でね。もちろん明日だけじゃない。わたしが貸し切る一週間のあいだに入っている予約者全員におなじようにしてやってくれ」
……そうだよね、養母はお金の使い方を間違っているよね。
養父が、ぼくらを引き取って以降すっぱり仕事を辞めてしまってからは、我が家の収入は養母の稼いでくるお金だけだったんだけど、いま話しながら、心底養父が養母の財産をすべて握ってくれていてよかったと思ったよ。
とはいえ、実際にミスタ・バークレイ――ああ、えと、弁護士さんのことだ――彼のところまでお金を請求しにきた客はひとりもいなかったのだけどね。
女将さんがいうには、「ホーン大佐の相手をしているなら仕方がない」って、みんな笑って許してくれたそうなんだ。
……よくわからない。それだけ、変にひとを惹きつける魅力のあるひとなんだろうね。
たまにいるだろう? なにをやっても不思議と許されたり、どんな我儘をいっても通ってしまうひとが。
たぶん養母は、そういうタイプの人間だったんだよ。だから、
「とりあえず、なにか食べさせてもらえないか」
「あ、はい。すぐに用意させます」
「その前に潮と垢を流したい。風呂か、湯を用意してもらえないかな」
「この子の部屋にお風呂があります。お湯を運ばせましょう」
そんなサービスなんていっさいやってなかったのに、女将さんは養母の要求にすぐ従った。小切手の金額に目がくらんだのもあるだろうけどね。
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