眠らせて

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 外に出ると、太陽が照りつけるように晃宏の顔にさす。思わず目をつぶっても太陽の光は残像となって目の奥に残る。振り払うように首を振ると、少しクラクラとした。 「大丈夫ですか?」  絢音が心配そうに晃宏の顔を覗き込む。マスクをつけたというのに、いまだに心臓の音が落ち着かない。必死に平静を保っていた波が、嵐の後に荒れ狂っているかのようだ。 「はい、大丈夫です」  せめて笑ってみせる。絢音に情けない姿を見せたままで終わりたくない。 「駅まで送りますね」  絢音は何か言いたそうだったけれど、見なかったフリをして歩き出した。  少しでも長く一緒にいたい。その一心で歩を進める。  絢音は一緒に帰りたくないのだろうか?  自分だけが空回りしていて、歯がゆい。  逡巡していたのか、歩きためらっていた絢音が意を決したように、小走りで晃宏の隣にすべり込む。それだけで心が少し暖かくなった。  絢音のわきに垂らされている右手を盗み見る。先ほどまでは繋いでいたはずの手が、今は遠い。その手に触れてもいいだろうかと、タイミングを迷っている間に駅についてしまった。  駅までの5分の道のりが呆気なく終わる。  駅前まで行くと、二人で自然とベンチの前で足を止めた。何度となく座ったベンチは以前と変わらずにあって、後ろでは大きな木が枝をこれでもかと広げて緑の扇をつくっている。  クリスマスに飾り付けられていたあの頃が懐かしい。季節外れのジャケットに手を入れる。あの時は、ポケットにプレゼントを入れていた。今は──。  ハンカチが手に触れる。  絢音がくれたアロマをつけていたハンカチ。  絢音が必死で伸ばしてくれた手。  今度は、晃宏から手を伸ばして引き寄せる番だと、あれほど思っていたのに。  ハンカチを握りしめて自分を奮い立たせる。無様でもいい、倒れるような自分でも良い。デートも満足にできなくても、途中で休まなければ歩けないような体でも良い。  絢音が寄り添ってくれる以上に、絢音に寄り添いたい。  絢音が優しくしてくれる以上に、絢音に優しくしたい。  絢音が自分を見てくれる以上に、絢音を見ていたい。  絢音が晃宏を好きであることを少しでも幸せに思ってくれるような、そういう自分でありたい。 「ちょっと、座っていきませんか?」  意を決して出した言葉は、うわずっていて思わず唾まで飲み込んでしまった。 「はい」  おそるおそる絢音の顔を見る。マスクがあるのが恨めしい。たぶん、自惚れじゃなければ、今、絢音ははにかんだはずだ。照れくさそうな表情はマスクで隠れてしまって、損したような気分になる。 「絢音さん、今日はありがとうございました」  ベンチに座ると、改めて絢音に向き直って頭を下げる。 「こちらこそ、楽しかったです」  絢音の言葉に、本当だろうかと卑屈な気持ちが湧き上がる。自分から誘っておいて調子を悪くしたあげく、気の利いた会話もできない。  いつか嫌われるかもしれない、呆れられるかもしれない。もしかしたら、この瞬間ももう晃宏に付き合うのにほとほと嫌気がさしているかもしれない。  でも──。  晃宏は唇を湿らす。 「今日だけじゃないんです」  手を伸ばすと決めた。誰よりも手を伸ばしてみせると、そう決めた。自分の卑屈な気持ちに負けている場合じゃない。 「絢音さんは僕に眠る時間だけじゃなくて、希望をくれました」  絢音が静かに頷く。 「この病気ごと僕を見てくれる、治らなくても受け入れてくれる、寄り添ってくれる人がいる。そういう希望です」  もしかしたら、一生、慢性疲労症候群と付き合って生きていかないといけないかもしれない。晃宏の人生はまだ長くていつも雨が降っているかのような道のりで、そんな晃宏にとって、絢音の存在がどれだけ晃宏の心をあたためてくれたか、励ましてくれたか。この道を、たとえ雨がふってぬかるんでいようとも、目の前に続く道を歩いていける。その希望は生きる勇気になる。それを教えてくれたのは、絢音だ。 「絢音さんが僕の隣に座ることを受け入れてくれて、本当に奇跡が起こったと思った。最初は眠れることが嬉しくて、土曜日があると思えば、眠れない日も悲観せずにいられたし、現に体調がよくなった」  女神みたいな人だと思った。  晃宏の言葉を絢音は真剣な表情でうなずきながら聞いてくれている。 「ただ、体調がよくなったら、怖くなったんです。もし、隣で寝てもらわなくてもいいくらい、この病気がよくなったら」  そうしたら、絢音はもう隣に座ってくれないかもしれない。 「そう思うと、怖くて仕方ありませんでした。最初の目的は眠るためだった。でも、途中から、絢音さんの隣にいたくなったんです」  絢音の表情を見るのが怖くて景色を眺める。  人はほとんど通っていなくて、たまにタクシーが大通りを緩く走り抜けていく。 「絢音さんが笑ってくれていたら嬉しくて、眠るよりも話せたことに喜びを感じるようになって、いつもそばにいてほしくなりました」  土曜日じゃなくても、契約なんてなくても、晃宏の体調がよくなっても。 「本題を言う前に、お礼を言わせてください」  絢音に向き直ると、絢音の瞳が潤んでいた。 「絢音さん、いつも僕のことを考えてくれてありがとうございます。体調がわるくなったときには背中をさすってくれて、いつも隣に座ってくれて。何度安心したかわかりません。隣で眠るのに付き合わせただけで帰っても嫌な顔ひとつせずにいてくれて、あんな風に契約を終わらせたのに見舞いにもきてくれた。自分を見離さないでいてくれる人がいる。それがどれだけ嬉しくて幸せだったか」  どれだけの言葉を尽くしたら、この想いが伝わるだろうか。 「今度は、俺が絢音さんを幸せにしたい」  何を言っているんだと思われるかもしれない。幸せにできるのかと思われるかもしれない。けれど、これが晃宏の想いだ。一緒にいてほしい。自分だけを見てほしい。なによりも幸せにしたい。 「絢音さんに支えてほしいのと同じくらい、絢音さんを支えたいんです」  絢音が辛いときには背中をさすって、絢音が泣きたいときには抱きしめたい。 「一緒に遊びにも行けないかもしれない。旅行にも行けないだろうし、デートもドタキャンするかもしれない。それでも、絢音さんが絶対に後悔しないように全力を尽くすと誓います。そんなことしか約束できないですけれど、それでもよければ」  動悸が早くなる。眩暈がしそうな気がして、ぎゅっと目を瞑った。がんばれ、今だけは絶対に倒れられない。 「俺と、付き合ってくれませんか?」  声が震える。手を握って見つめて言いたかった言葉だったけれど、実際は、目線は地面だし、両手は自分で握りしめている。ぐらりとかしいだ気がした体を受け止めてくれたのは、絢音だった。 「晃宏さん」  絢音の声が鈴のように二人の間に流れる空気を振るわせる。  そっと絢音が体を支えながら、晃宏の両手に手を添えた。
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