はじまり

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はじまり

 朝、8時。  西船橋の喧騒を通過して、夢の国に向かう人々を見送り、赤い顔の可愛らしい電車から降り立つと、ホームを暖かな風が吹き抜けていった。新木場駅の乗り換え改札を抜けた先では、モダンなアートが上品な静けさをたたえながら、向かいでは蕎麦屋がのれんを掲げていて、都会の端の独特な雰囲気に包まれている。  まだ寝起きのカフェを通って階段を降りると、進行方向から柔らかく差し込む太陽の光と車庫へと続くトンネルが出迎えてくれた。  階段の前を外した中程の車両の端の席。そこが、いつも絢音が座る席だ。  始発の新木場駅で、座っている時間はたったの10分。さほど混み合うわけでもないこの駅の、この時間の顔ぶれはほとんど一緒だ。なんとなく定位置のある座席をわざわざ移動することもない。  たったの10分だけれど、この10分が絢音の気持ちを仕事へ切り替えてくれる調整時間になっていた。  幻想的なホームがそう思わせるのか、戦場に赴く戦士の束の間の休息かのように、この10分間はゆったりとした時間が流れているように感じる。 「まもなく、電車が参ります」  いつもの音声アナウンスが響き渡る。いつもの定位置にいつもの顔ぶれが収まっていく。  言葉も交わしたことのない人たちと何気なく視線を交わし合う。今日はあの人がいないな、と気づくほどにはもう馴染みの顔ぶれだ。電車が来ると自分の席に向かい、いつもと同じように座席にピタリとはまると、まるで皆と一緒に戦いに行くかのような気分になって、少しだけ心が踊る。  戦友とも勝手に呼んでしまいそうなメンバーに、その男の人が加わったのはいつからだったろうか。  混み合うほどではない席も、いくつかは隣り合わないと座りきれない。去年の冬は、絢音の隣は女の人だったような気がする。長い髪の毛が視界にも入っていた記憶がある。  それが、桜が散り始め、春の浮足だった空気が落ち着いて初夏の気配を感じる頃にはもう、隣には、男の人が座るようになっていた。 「次は新富町駅に止まります──」  機械音声のアナウンスが流れる。  僅かな揺れとともに、瞳を閉じて、音楽を聴くのがいつもの通勤スタイルだ。  最初は、髪が触れるなというのを感じていた。肩に何度となく重さがかかる。  触れては離れ、離れては触れて。  薄眼を開けて確認すると、隣の男性が左右に揺れている。乗ったばかりなのに、深い眠りについているその人を邪険に扱うこともできず、スマホの音量を上げた。  どうせ10分程度のことだ。やり過ごすに限る。  つかず離れずの重さは次第に長い時間、肩にとどまるようになった。 ──なんだか、いい匂い。  シャンプーなのか香水なのか。目をつぶっているせいで、嗅覚が鋭くなっているからなのか。鼻をくすぐる匂いが胸を満たしていく。表現の仕方が難しいが、脳に直接語りかけられるような香りだ。思わず、深く息を吸う。  そろそろ降りようかと身動ぐと、肩が軽くなった。  立ち上がると同時に、ちらりと隣の人を見たが、俯いていて顔はよくわからない。青みがかったスーツからは、少し若い人なのかなという予想だけがついた。  電車から一歩外に出ると、名残惜しい気持ちは一瞬で霧散し、現実へと引き戻される。階段へと向かう人たちに紛れて歩いていると、彼の香りは人の波の匂いにまぎれて消えてしまった。
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