159人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
山手線2周。1回5000円。
それが、彼との、晃宏との契約だった。
山手線の1周は1時間3分〜4分、おおよそ2時間。1時間あたり2500円で、彼の隣に座っているだけの仕事は、アルバイトなら破格のお給料だ。
しかも、全額手取り。交通費は支給で、たまにお昼も出るという超高待遇。
けれど、今になって思う。なぜ、引き受けてしまったのか。
お金に困っていたわけではない。けれど、あのとき、頷く以外の選択肢は絢音にはなかった。
「絢音さんには本当に感謝しているんですが、もう続けられそうにないんです」
晃宏が硬い表情で目の前に握った手を見つめている。絢音の顔から視線を背けるようになったのは、いつからだったろうか。
「これで、契約終了にさせてください」
頭を下げた彼から漂う香りが、絢音の心をざわつかせる。結局、どうしようもない安らぎと焦燥を与える、この香りの正体はわからなかった。
「わかりました」
ついさっきまで、自分の肩に触れていた髪が、肩の重みが、彼の横顔が、胸にせり上げてくる。
山手線の真ん中の車両の端の席で、彼が眠りにつくその時間は、絢音にとっても大切な時間だった。
「もし……」
言葉が口をつく。
「はい」
彼の相槌に我にかえる。
もし。
一体、何を言おうというのか。
困ったら、連絡してくれ?
気が変わったら、いつでも、雇ってくれ?
嫌じゃなければ、いつもの席に?
私の──、なんて。
言えるわけない。
「いえ、なんでもないです。ありがとうございました」
深くお辞儀をする。コーヒーを残して、席を立った。
私こそ、感謝してもしきれない。この半年間、晃宏の隣にいることができて幸せだった。
最初のコメントを投稿しよう!