9人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
隣国オルグレンまでの、国境を越えての長旅に備え、ハーゲル国内最後の駅での停車中、同じコンパートメントにいけ好かない男が乗り合わせた。
帽子を目深にかぶり顔は見えないが、ベージュのコートからのぞくグレイの三つ揃いの襟元に、開いた本の上に鍵が載った金色の襟章を留めた洒落者気取り。おまけに無駄に足が長く、組んだ脚が俺のテリトリを侵略していてもお構いなしだ。
――こんなことだったら、三号車に席を取ればよかったぜ。
島内を南北に走る鉄道の、三泊四日の長旅のために、俺は渡された手切れ金を全額突っ込んでここに席を取ったのに。よりによって相席の客が男! なんてツイてない。
ハーゲルの貴族の未亡人に愛人として雇われ、はるばる母国、南国グリーンランドから北国ハーゲルまでの、文字通りめくるめく官能の旅を終えたとき、惚れっぽい未亡人は自身の故郷で売り出し中の若い俳優に恋をして、俺に別れを告げたのだ。
(あなたのことは愛していたと思ったけれど、それは愛じゃなかったのよ)
なんていって。マジかよ。俺は一生彼女の愛人として雇われるつもりで、グリーンランドにあったわずかな財産も職もすべて売っぱらってきたというのに。
劇団の仲間はきっと笑って俺を迎え入れてくれるだろう。あいつらはいいやつらだった。だが、俺が未亡人の愛人になると知って嗤ったやつらはもっと嗤うことだろう。
「……畜生、いいことねェや」
そう同室の客に聞こえないように俺が呟いたときだった。
「お願いします、かくまっていただけませんか」
コンパートメントの扉が急に開かれ、見たこともないほど美しい、どこか浮世離れした女が飛び込んできたのだ。わーお! なんだこの展開。
「あんたみたいな別嬪なら、頼まれなくてもかくまってやるぜ」
思わず腰を浮かせた俺に、美女は首を振る。
「わたくしではございません――この方を」
彼女は自分の背後に手をやり、扉のむこうからちいさな人物らしきものを引き入れた。らしきもの、というのは、それがまるでカーテンのように厚くて広いベールで体ごとすっぽりと包まれていたからだ。
最初のコメントを投稿しよう!