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その時、背後でゆらりと闇が胎動する。神獄が奇妙な気配を感じて振り返ると、いつの間にかそこに一人の男が立っていた。
長身痩躯で、ハンチング帽からタートルネックのセーター、レザーパンツ、革の靴にいたるまですべて真っ黒だ。そのうえ髭を生やし、サングラスまでつけた、不審者を絵に描いたような男だった。
神獄は男に冷ややかな視線を向ける。
「エニグマ……何の用ですか、こんな時間に」
すると男はひょろりとした手を大仰に宙へと掲げ、神獄に笑みを向けた。
「ああっ! そのツレない態度! さすがは《レッド=ドラゴン》を束ねる六華主人、紅神獄様でいらっしゃいますねぇ~! この情報屋エニグマ、あまりの懐かしさで涙が出そうですよ。あなた様とこうして話していると、《監獄都市》に戻って来たという実感がしみじみと湧くというものです」
「お前こそ勝手に人の家に乗り込んできておいて、芝居くさい挨拶はやめなさい。用件は何?」
神獄は薄いネグリジェの上にガウンを羽織っただけの、無防備きわまりない姿だ。こんな夜更けに他人の寝室へ押しかけてくるなど、図々しいにも程がある。
そういった怒りを込め、神獄は冷然として突き放すが、エニグマには懲りた様子もない。やたらと癇に障るわざとらしい仕草で、手にした菓子折りを差し出してくる。
「いえね。実はわたくし、出張で西京新都へ行っていたのですよ。ついでに伊勢まで足を延ばしたんですが、いやあ、何度も行ってもいい所ですね~。これ、お土産です。あなたにはさぞ懐かしく感じられるだろうと思いまして……つまらないものですが、どうぞ」
「……」
神獄はエニグマの取りだした菓子折を受け取った。確かに有名な伊勢銘菓だ。小さい頃はよく口にしたっけと、懐かしさがこみ上げてくる。
伊勢は式部真澄の生まれた場所だ。小学生までは伊勢で育ったが、その後、父親の転勤にともなって埼玉に引っ越してきたのだ。
だが、これまでエニグマに式部真澄の子供時代を明かしたこともなければ、伊勢にいたことがあると話した覚えもないが、エニグマはとうの昔に把握しているのだろう。
さすがは情報屋を名乗るだけのことはある。神獄はそう思ったが顔に出すことは無かった。この情報屋は得体の知れない男だ。ふざけたなりをしているが侮れない、油断のできない男なのだ。
「……これだけの為にわざわざ? 見かけに寄らず、ずいぶんとマメなのね」
神獄は菓子折りをテーブルに置くと、すっと目を細めてエニグマを睨んだ。まさか、これだけの為にここへ来たのではあるまいと鋭く牽制をしながら。
するとエニグマは口元にニヤニヤと笑みを張りつける。
「いえいえ、それだけではございませんよ。実は私、あなたに一つ伝え忘れたことがありましてね」
「伝え忘れた……? 何か目的があって伝えなかった、の間違いでしょう?」
「ああ、この信頼の無さ! あなた様は私の大切な顧客の一人だというのに、この扱いは泣けますねえ……実に泣けます!」
「早く用件を言わないと、その滑らかな口を削ぎ落しますよ」
神獄が再び睨みつけると、エニグマは憎たらしいほどの大袈裟な仕草で肩をすくめる。
「ふふふ、さすが紅神獄さま。睨んだ顔もお美しい! ……実はわたくし、ある伝言を言付かっているのです」
「伝言……? 誰から?」
「雨宮深雪というお客様からです。ああ……といっても轟鶴治ではありませんよ。《ウロボロス》であなたと一緒だった雨宮深雪です」
「……!!」
その瞬間、懐かしさとも何とも言えない、不思議な感情が神獄の胸にあふれた。深雪が生きていて、この《監獄都市》にいることは知っていた。その深雪が自分にメッセージを残していたなんて。二十年前の日々が鮮やかに甦ってくる。
今思えば真澄や火矛威、深雪の関係は幼く、ごっこ遊びみたいなものだった。それでも宝物のように残っている大切な思い出だ。
(深雪が私に……!)
しかし次の瞬間、神獄は、はっと我に返った。エニグマに隙を見せるわけにはいかない。この男は情報屋だ。情報を買えば買ったぶんだけ、自らの情報もまた売られているのだ。
「……私のことを彼に喋ったのですか?」
紅神獄が式部真澄であることを知る者は、《監獄都市》ではごく一部に限られている。神獄が警戒し、探るようにして尋ねると、エニグマは大仰に首を振った。
「いいえ、滅相もない。私どもにとってお客様との関係は何より大切です。さっきも言った通り、あなたは私にとって最も重要な顧客の一人……迂闊に情報を漏らしたりはしません。彼はおそらく自力であなたの素性に気づいたのですよ」
「……。深雪は何て?」
「彼はこう言っていました。もし自分の力が必要なら、いつでも助けになると。その時になったら、いつでも言ってくれと、そう私に言伝てました」
「……」
深雪らしい、と神獄は思った。エニグマが目の前にいなければ、神獄の顔には穏やかな笑みが浮かんでいたことだろう。
雨宮深雪は式部真澄の初恋の相手だった。深雪の優しいところ、強いところ、責任感の強いところ。全てが大好きだった。突出したところがあるわけでなく、容姿なども平凡であったことが余計に真澄の心を掴んだ。その時の真澄が求めていたのはカリスマ性にあふれた王子様ではなく、一緒にいて心を許せる相手だったのだ。
その恋は若く瑞々しかった故に、身を焦がすほどに激しかったが、真澄は深雪に想いを伝えることはが無かった。そんな勇気も無かったし、何より深雪がそれを拒んだからだ。
どれだけ深雪と特別な関係になりたいと願ったことか。だが深雪は、特別な関係になることを望んでいなかった。深雪は真澄を大切にしてくれたが、それはあくまで仲間としてであって、『愛』ではなかったのだ。真澄に何かが足りなかったわけではないと分かっている。ただ関係が発展するには、何かが決定的に足りなかったのだろう。
(あれから二十年も経ち、私は式部真澄であることを捨て紅神獄になった。それなのに……変わらないのね、深雪)
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