第4話 シロを呼ぶ謎の声

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 しばらくして他のメンバーは事務所を後にした。神狼は中華料理店・《龍々亭》のバイトがあるし、オリヴィエも孤児院の仕事がある。流星や奈落も事務所の外に居を構えており、明日の打ち合わせを済ませると、事務所はすっかりもぬけの殻になった。  午後八時を回った頃、深雪はシロの部屋の前まで行くと、一緒に夕食を食べようと声をかけてみた。  流星に言われたことを覚えていたのか、シロはすぐ部屋から出てくるものの、そこにいつもの明るさはない。おまけに深雪がどれだけ話しかけても上の空で、返事も曖昧だ。結局、一度も会話がはずむことなく夕餉の時間は過ぎてしまった。  深雪は二階に上がってシロと分かれてから、そのまま自室に戻ってベッドに横になると、すぐに睡魔に襲われ、あっという間に眠り込んでしまった。  どれくらい経っただろうか。ふと目が覚めて腕輪型端末で時間を確認すると二十三時を回っていた。  喉の渇きを覚えた深雪が一階に降りると、キッチンから明かりが漏れていた。誰かいるのだろうか。そう思って中を覗いてみると、シロの姿があった。  ちょうど風呂上りであるらしく、シロは長い髪を後ろで結い、頭にタオルを巻いていた。そのタオルの隙間から獣耳が覗いている。上は襟ぐりが開いているミント色の大きめのルームウェア。下は七分丈のグレーのズボンを着ている。  シロは両手で愛用のマグカップを包み、シンクの縁に背を預けて物思いに(ふけ)っているようだった。マグカップからはホットココアの甘い匂いがほのかに漂っている。  深雪がキッチンに足を踏み入れると、シロもすぐに深雪に気づいた。 「ユキ……」 「シロもキッチンにいたんだ」   「ユキはどうしたの?」 「ちょっと喉が渇いちゃって」 「コーヒー飲む?」 「いや、水でいいよ」  深雪は食器棚にあるグラスを手に取ると、蛇口を捻って水を注いだ。その間もシロはぼんやりとした視線を虚空に投げたままだ。マグカップから湯気を立てているココアに口をつける気配もない。 「俺もシャワーを浴びてこようかな。汗臭いし」 「……」  深雪はそれとなくつぶやいてみるが、シロの反応はなく、ぼうっと何かを考え込んでいるようだった。深雪を無視しているわけではなく、考え事に没入するあまり気づいていないのだろう。  深雪はシロの隣で同じようにシンクの縁に背を預けると、できるだけさり気ない風を装って話しかける。 「あのさ、シロ。昼間に突然、走って行っちゃっただろ? どうしてだったのか……聞いてもいい?」  するとシロは困ったようにマグカップを口に運ぶ。 「……シロもよく分からないの」 「どういうこと……?」 「あの時……誰かに呼ばれたような気がしたの。『私はここにいる……ここにいるよ。だから、この声が聞こえるなら私のところに来て』って。だからシロ、行かなきゃいけない気がしたの。でも……その声はすぐに遠くなって聞こえなくなっちゃった」 「声……? 俺には何も聞こえなかったけど……」  深雪は戸惑いながらも自分の記憶をたどる。あの場には流星やマリアの他に、あさぎり警備会社の社員や《アルコバレーノ》のメンバーが居合わせていたけれど、誰もシロを呼ぶ声を聞かなかったし、見ず知らずの第三者がシロの名を呼ぶことも無かったと思うのだが。  しかし、シロは半信半疑といった風の深雪に身を乗り出すと、一生懸命に訴える。 「すごく……すごく小さな声だったの。でも確かに聞こえたよ。嘘じゃない!」 「分かってるよ、シロが嘘を言ってるなんて思ってない」  深雪はシロのマグカップを握る手を、落ち着かせるようにポンポンと叩いた。 (つまり俺や流星には聞こえないほど小さくて、シロには聞くことができた音……ってことか)  確信は無いものの、深雪はその声に意図的なものを感じた。周波数の問題なのか、それとも音量の問題なのか、深雪はシロの隣にいたのに何も聞こえなかった。  シロの聴覚は人並外れており、深雪にも聞こえない音を拾い、たびたび危機が迫っていることを教えてくれた。だから呼び声の主はわざわざシロの耳だけに聞こえる音を発して、シロに何かメッセージを伝えたかったのではないか。 (俺の考えすぎかな……?)  ところがシロは、まるで友達との大事な約束を破ってしまったみたいにしょげ返ると、悲しそうな顔でうつむいてしまう。 「……すごく懐かしい声だったの。だからシロもどうしても会いたくなって一生懸命、走ったのに……あの子は姿を見せてくれなかった。どうしてなのかな……?」  シロに何か声をかけてあげたくても、深雪に応えられるはずもない。それでも少しでもシロの役に立ちたくて会話を続けてみる。 「あの子……か。その子は男の子? それとも女の子?」 「たぶん……女の子だと思う」 「今まで会ったことがある?」 「ううん……初めて聞く声だった」 「初めてなのに懐かしかったの?」 「……うん。シロもよく分からない。その声を聞いた途端、いてもたってもいられなくなって、走り出さずにはいられなかった……どうしてなのかな?」  シロ自身、自分の記憶や行動に理解が追いついていないのだろう。走り出した時も、理屈はそっちのけで本能的の(おもむ)くままに行動していたように見えた。もしかしたらシロも自分の身に起きた出来事に、ひどく戸惑っているのかもしれない。  シロの耳に聞こえた「かすかな声」がどんなものなのか、深雪にはまったく見当もつかない。シロの気持ちを完全には理解できなくても、それでも深雪は彼女を励ましたかった。 「もしかしたらまた聞こえるかもしれないし、声の主とも会えるかもしれないよ。だからその……元気出していこうよ。シロが落ち込んでると、俺達も元気が出ないからさ」 「……そうなの?」  シロははじめて深雪の顔をじっと見つめた。 「そうだよ。いつも何かあった時に真っ先に気づくのはシロだし。足も一番早いしさ。それにシロは何て言うか……みんなのムードメーカーだから」 「本当に? シロ……みんなの役に立ってる?」 「もちろんだよ。それどころか、いてくれなきゃ困る。今日もシロの元気がなくて、みんな心配してたし」  元気のないシロに、無理をして明るく振舞えと強要する気はないけれど、深雪はシロに知って欲しかった。シロは一人ではない。不安な事やわけが分からずに戸惑う事があっても、きっと力を合わせれば解決できるんだと。 「そっかあ……えへへ。ありがと、ユキ。ユキのおかげで元気出てきた」 「シロ……」 「……そうだよね。何が起こったのか、シロにも分からないんだもん。悩んでも仕方ないよね」  そしてシロはようやく笑顔を取り戻す。 「ユキ、明日も頑張ろうね」  深雪も笑顔で挨拶を返した。それでシロの悩みや不安がすべて晴れたわけではないだろう。それでも事務所に戻ってから一度も笑わなかった彼女の笑顔が見られただけでも、深雪は良かったと思うのだった。 「もうこんな時間か……それじゃ、おやすみ」 「うん、おやすみ」  シロは微笑みながら、くるりと背を向ける。その時、深雪はシロの後ろ首の付け根に数字が刻まれているのが目に入った。 (え……?)  深雪は思わず目を凝らした。シロの背中に数字なんて刻まれていただろうか。そう疑問を抱いた瞬間、シロの背中は亜麻色の長い髪で隠されているため、ほとんど目にしたことがないのだと気づく。  シロの背中と首の間に刻まれているのは数字の『4』と『6』だった。機械を通したかのように端然としたフォント。その下にはバーコードのような縦線が刻まれている。 (何だ……? シロの背中に数字が刻まれている……? 『4』と『6』……)  そして深雪はハッと気づく。 (4と6……シとロク……合わせて『シロ』か!)  シロの名前の由来は、てっきり色の『白』から来ているのだと思っていた。純粋で天真爛漫なシロには、何となく『白』という色が似合う気がしたからだ。まさか数字を意味していたとは思わなかった。  普通は人の体に番号やバーコードを刻んだりしない。しかも、それが名前の由来だなんて。それだけでシロの生い立ちが一気にきな臭く感じられてしまう。 (シロはこの事を知っているのか……?)  深雪はシロを呼び止め、背中の数字について問い質してみようと思ったものの、すぐに思い直す。せっかくシロの顔に笑顔が戻ったのに、彼女の顔を曇らせるようなことを、わざわざ知らせたくなかった。 (いや、まだ俺の推測が正しいと決まったわけじゃない。明日……それとなくシロに聞いてみよう。もしかしたらシロの名前は背中の数字とは無関係かもしれないし)  そう思いつつも、深雪はシロの去った廊下から目を離せなかった。
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