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第5話 夜闇に紛れ、動く影
午前零時を過ぎても新宿の街は眠らない。かつて不夜城と呼ばれた繁華街は、《監獄都市》となっても変わることはない。煌びやかなネオンに猥雑な人の波。
だが、その範囲は《関東大外殻》ができてから確実に狭まっている。特に大通りから外れた奥まった場所は、日付けをまたぐ頃になると、ひっそりと静まり返るのが常だった。
すっかり灯りの消え去った東雲探偵事務所の前の大通り―――その道路を挟んだ向かいに十数階建てのビルが建っている。かつて商業ビルだった建物には今は何のテナントも入っておらず、看板は色あせ、窓ガラスの大半は割れてしまっている。
そのビルの屋上に東雲探偵事務所を見下ろす一団の姿があった。
人影の数は、全部で四人。
その中で最も背が高く痩身の青年がタブレットで資料を映し出す。暗闇の中、ディスプレイが放つ煌々とした光が男の細面を照らし出すものの、その目元はどこか皮肉げな光を湛えていた。
どうやらクセの強い髪質らしく、頭髪はひどく波打っており、後頭部やもみ上げは刈り上げだ。着ているのはシンプルなネイビーのカジュアルスーツに白いシャツ。二十五歳前後という年齢もあって、《中立地帯》のゴーストに交じっていてもおかしくない。
「東雲探偵事務所……か。ふうん……《ヘルハウンド》の生き残りと《紫蝙蝠》の生き残りね。くくく……笑えるぜ、まるでゴジラとモスラじゃねーか。おまけにこっちはヨーロッパで起きた大虐殺事件の容疑者で、もう片方は警視庁の機動装甲隊員・十二名を殺害した容疑者ときた。極めつけは無謀にも防衛省にクラッキングを仕掛けたハッカーだろ? どいつもこいつも前科ありまくりの大罪人ばかりじゃねーか。クズのバーゲンセールだな。よくもまあこれだけ集めたもんだぜ」
青年の容姿は《中立地帯》のゴーストそのものだが、ストリート=ダストにしてはやけに落ち着いて冷静だ。
その冷徹ともいえる瞳はタブレットの資料を舐めるようにして追う。そこにあるのは東雲探偵事務所の《死刑執行人》に関する詳細な資料だった。
「クズでも何でも使えるものは徹底的に使う……そういう男なのだろう、東雲六道という男は。奴らの経歴などどうでもいい、所詮は烏合の衆にすぎない。俺達はただ……任務を実行すればいい」
次いで口を開いたのは青年の隣に立つ少年だった。こちらもシンプルなレザージャケットにピクセルグリーンのパンツと、《中立地帯》のゴーストに交じっていても違和感はない。だが妙に視線が冷ややかで、老練さすら感じさせる。
何より少年の容姿は東雲探偵事務所の《死刑執行人》である雨宮深雪に酷似していた。そっくりというレベルではない。まさに同一人物だ。深雪より多少髪が短く、言動も落ち着いているが、それを差し引いても少年と雨宮深雪はよく似ていた。
カジュアルスーツの青年は、その少年の横顔をニヒルな目つきで眺めつつ肩を竦める。
「任務……ねえ? 誰かさんは早々に《中立地帯》のガキどもと一戦やっちまったそうじゃねーか? 《監獄都市》のゴーストとは可能な限り接触するな―――それが命令だったはずだろ?」
「……殺してはいない。許容の範囲内だ」
雨宮深雪に似た少年―――雨宮実由紀は事も無げにそう答えた。
雨宮実由紀が《監獄都市》に潜伏して十日ほどになるが、昨日、《中立地帯》のゴーストに絡まれてしまった。相手はトンネルの出口で実由紀を待ち構えており、出てきたところを取り囲んで金銭を要求してきたのだ。彼らは街角に潜んで恐喝や強請を行い、それを生業にしているのだろう。
もっとも相手はただの不良まがいの集団で、アニムスを使うまでもなく、体術のみで退けたのだが。
すると皮肉げな目元の青年は「クク」と喉の奥で嗤った。
「許容の範囲内……ねえ? 物は言いようだな。それで万一にも俺たちの存在を奴らに感づかれちゃ、任務の遂行に支障をきたすんじゃないのか?」
「しくじったのはお前も同じだろう、碓氷。《狗》を使って六番目をおびき出す作戦はどうなった?」
すると、どこか楽しげだった碓氷は途端に苦々しそうに顔を歪める。
「どうもこうもねえ。向こうの《狗》が反応して食いついてきたところまでは良かったが、余計な連中までついて来やがった」
「……」
実由紀は無言で碓氷の弁明を聞いていた。碓氷の失敗を「ざまあみろ」と貶す気にはなれない。碓氷の失敗は、指揮官である己の失敗でもあるからだ。何としてでも与えられた任務を遂行しなければ。それ以外に自分たちが存在する意義などないのだから。
「……どのみち小細工が通用する相手じゃない。烏合の衆とはいえ、奴らは曲がりなりにもゴーストなんだ。《よもつひらさか》が入港するという時期もあって周囲をひどく警戒している。任務を確実に遂行するなら、もっとデカい網を張る必要があるな」
「どうする、雨宮?」
実由紀に声をかけたのは三人目の青年だった。身長は碓氷と変わらないものの、表情が乏しいせいか、あまり個性が感じられない顔立ちだ。
吊り上がった細い目元に細い鼻梁、薄い唇。顔のパーツすべてが細く、鋭利な印象を受ける。声にも抑揚がなく、一見すると何を考えているのか分からない。無個性な短髪と無表情がさらに輪をかけている。
黒いフード付きのダウンジャケットに、白いニット、カーキ色のパンツ。ストリート=ダストを思わせる服装だが、個性や主張といったものは一切ない。街中で見かけても特に記憶には残らない容姿だ。
彼の名は月城音哉。碓氷と同じく実由紀の仲間であり、部下でもある。
これからどう手を打つべきか。実由紀は束の間、考え込むと、碓氷と月城に向かって口を開いた。
「戌案でいく」
「……国立競技場を使う計画か。あの中に六番を誘い込み、東雲探偵事務所の連中と引き離すことができれば、作戦の成功率は確実に上がるだろうな」
碓氷の言葉を聞き終えてから、実由紀は仲間に向かって順に命令を下していく。
「国立競技場には行き場のないゴーストが棲みついている。連中の排除は月城に任せる。万一、姿を見られた際は目撃者の記憶を消去しろ。俺と碓氷は明日、『餌』の確保に向かう」
「餌……?」
「ああ、魚を釣るには餌が欠かせんだろう」
実由紀は東雲探偵事務所をあごで指した。それに気づいた碓氷はニヤリと陰湿な笑みを浮かべる。
「ふん……なるほど、『餌』ね」
「『敵』には絶対に俺たちの動きを悟られるわけにはいかない。重要なのは迅速さだ。東雲探偵事務所のゴーストと一切、交戦することなく、六番目を回収する。それが目標だ」
実由紀の計画に碓氷や月城も異論は無いようだ。
「明日が勝負だな」
「……了解」
しかし、あるべき返事がひとつ足りない。それに気づいた碓氷は、三人から離れたところに立ち、無言で東雲探偵事務所を見下ろしている小さな人影に向かって乱暴に声をかける。
「おい、聞いていたか、犬っころ!」
「……」
小柄な人影は碓氷の毒舌にも反応を返さなかった。真っ黒なパーカーのフードを目深に被り、顔は見えない。腿まで丈があるパーカーの下には、赤いタイツを履いた華奢な足が覗いている。
見るからに十代の少女だと分かる体つきだが、彼女がただの少女ではないと実由紀は知っている。
「ふん……相も変わらず反抗的な奴だ。しっかり躾けておいてくれよ、雨宮?」
そう吐き捨てて屋上を後にする碓氷に続き、実由紀や月城も踵を返す。
ふと実由紀が背後を振り返った瞬間、屋上をびゅうと風が吹き抜けていった。風は激しく深雪の短い髪を撫でると、今もなお無言で東雲探偵事務所を見下ろしている少女のフードをも吹き飛ばし、その下の素顔があらわになる。
十代半ばくらいの、あどけない顔。クリーム色の長い髪は耳の下でツインテールとなり、風に揺れている。ただ、彼女が普通の少女と違うのは、頭部にある獣耳だ。少女の側頭部からはゴールデンレトリーバーに似た耳が垂れ下がっている。
それこそが彼女が普通の人間ではないという証だった。
「……」
実由紀は目を細めて獣耳の少女を見つめると、無言で屋上から消え去る。
実由紀たちが屋上から姿を消した後も、彼女は東雲探偵事務所をただ一心に見つめていた。
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