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第38話 紅神獄の役目
月のきれいな夜だった。芳醇な香りを放つ、白百合のような澄んだ月光。あまりの美しさに、どうも眠気までが吹き飛ばされてしまったようだ。
紅神獄は寝所を抜け出し、窓のそばへと歩み寄った。精緻な装飾の施された中華格子の向こうには、《東京中華街》の街並みが広がっている。
《東京中華街》の誕生は池袋を一変させた。今や高層建築物が所狭しとひしめいており、その一部は月に届こうかという勢いだ。目も眩むようなネオンがあふれ、色とりどりの光の洪水となり、市井は活気に満ちている。
この街をここまで発展させたのは、かつての《九尾狐》であり、現在の《レッド=ドラゴン》だ。紅神獄が何をおいても守らねばならないものの一つだった。
そんな《東京中華街》で二番目の高さにある高層ビルが、紅家の邸宅だった。そして、その最上階が紅神獄の居室だ。キッチンに居間、寝室、客間、バスルーム―――ひとつひとつの部屋は信じられないほど広々としており、内装から家具、照明、絨毯に至るまで、贅が凝らされている。
最も狭い寝室だけとって見ても、100平米はあり、中華格子の向こうには中華風の屋上庭園まである。青々とした木々の間には風流な庵が鎮座し、翡翠色の水を湛えた池のそばには大理石がいくつも積み上げられ、そのてっぺんから滝が滔滔と流れ落ちている。そんな庭が神獄の部屋をぐるりと囲っているのだ。
侍女や侍従の数は百はくだらない。それでも紅家の邸宅は、黄家の邸宅である黄龍太楼》にくらべると幾分か質素だった。
何せ《黄龍太楼》は《東京中華街》で最も高い建築物なのだ。紅家の邸宅も豪奢で荘厳な建築物だが、黄家の邸宅である《黄龍太楼》にくらべると、高さにおいても装飾においても、やや見劣りがする。
このような様を指してか、《東京中華街》ではしばしばこう囁かれる。《レッド=ドラゴン》の真の支配者は、紅家ではなく黄家なのだと。
だが、紅神獄はそれを気にかけたことは無い。別に権力を得て、贅沢をするために六華主人になったわけではないからだ。
それに黄家の力が無ければ紅神獄が六華主人になれなかったことは、紛れもない事実だ。《九尾狐》の頭だった紅神獄の、真の味方である華僑は黄家だけだったのだから。
もっとも、次期六華主人は全家の候補者の中から公平に選ぶつもりだ。黄家とはいえ、後継者争いにおいて優遇するつもりはない。そうでなければ競争原理が働かず、たちまち組織は腐敗してしまう。黄家は当然、黄雷龍を六華主人に推薦するだろう。彼が次の六華主人になれるかどうかは、その実力次第だ。
紅神獄はリモコンを手に操作すると、かすかなモーター音がし、窓を覆った中華格子がするすると横に移動して畳まれていった。自動開閉システムだ。
飾りの無くなった分厚いガラス窓の向こうには、《東京中華街》の放つネオンの光が宝石のように輝いている。
その絢爛な輝きの向こう、遠くかすかに新宿の明かりを見ることもできた。それこそが神獄の目にしたかったものだ。こうして新宿の街を遠く眺め、思いを馳せるのが、このところの神獄の日課となっている。
最近、どうにも眠れない日々が続いていた。雑念が頭から離れない。目を閉じると、知らず知らずのうちに思い出してしまう。帯刀火矛威に最後に会った日のことを。
(あそこには火矛威がいる。そしてきっと、私が生んだあの子も……)
あれから十四年が経った。生まれたばかりの頃は小さな手足を目いっぱいに動かし、乳をねだっていた彼女も、きっと今は見違えるほど大きくなっているだろう。
(火澄……私の子……!)
情報屋によると、彼女の名は火澄というそうだ。その名を聞いた時、神獄は火矛威の並みならぬ優しさを感じ、感謝せずにはいられなかった。火澄の『澄』という字が真澄の名からきていることは、神獄もすぐに察せられたからだ。火矛威は彼女を、とても大事に育てているという。
(……会いたい。一目で良いから、あの子に会いたい。でも……それは絶対に許されないのよ。私は式部真澄という名を捨てたと同時に、全てを捨て去ったのだから……)
紅神獄―――式部真澄はガラス窓に添えた手をきゅっと握りしめる。
火矛威がずっと自分に好意を寄せていたことを真澄は知っていた。それがただの好意ではなく、恋愛感情であったことも、きちんと理解していた。
真澄もまた決して火矛威のことが嫌いではなかった。火矛威とは一番辛い時期を共に過ごした仲だ。《ウロボロス》や深雪を失って死んだようになっていた自分を火矛威は支え、守ってくれた。本来であれば、自分は火矛威の好意に報いるべきだったのだろう。だが、真澄は応えることができなかった。轟鶴治に出会ってしまったからだ。
鶴治はとても孤独な人だった。普段は飄々と振舞っていて、豪胆ですらあったが、本当の彼はその姿からは考えられないほどの深い淋しさを抱えた人だった。
彼はたくさんの秘密を抱えていて、真澄にすら全てを打ち明けることはなかった。真澄は幾度となく鶴治に寄り添った。彼の身のうちに潜む、底なし沼のような深い孤独を埋めようとして。
だが鶴治は、何があっても真澄に己の秘密を打ち明けることは無かった。何が彼をそこまで頑なにしたのかは分からない。ただ真澄の目には、鶴治が己の中にある孤独や虚無と心中しようとしているように見えた。
真澄が火矛威でなく、鶴治を選んだのはそこにある。鶴治には真澄が必要だった。少なくとも真澄はそう思っていた。真澄は鶴治を可哀想だと思ったのだ。
《アラハバキ》の総組長の息子として、望むものは何でも手に入れられる立場だった鶴治。しかし、その地位すらも彼の心を埋めることは出来なかった。どれだけ権力を手にしても、どれだけ部下に恵まれても、鶴治には埋められない虚無がある。だから真澄は彼のことが可哀想でならなかった。
誰にも相談できず、理由すら口にできずに、ただ苦しむ鶴治を、どうにかして救いたかった。そして気づいた時には鶴治を深く愛していたのだ。彼の為なら自分の命さえ惜しくなかった。彼の心が平穏で満たされるなら何だってできると、そう思っていた。
鶴治の顔立ちは確かに深雪と似ていたが、鶴治の抱えていた孤独は、深雪とはくらべようもないほど深く、冷たい雪に一人、埋もれていくようだった。
だが結局、真澄は轟鶴治と結ばれることは無かった。鶴治は言った。一緒に《アラハバキ》に来て欲しいと。そして最期の時を共に過ごして欲しいと真澄に願ったのだ。だが、真澄は鶴治の願いを受け入れることはできなかった。何故なら、どうしても《九尾狐》を捨てることができなかったからだ。
時期が悪かったこともある。その頃、紅神獄の食事には毒が盛られることが増えていた。身内に紅神獄の暗殺を目論んでいる者がいる。そんな緊迫した状況で真澄だけがただ一人、《九尾狐》を抜けるわけにはいかなかったのだ。
(あの時は……ずいぶん悩んだし、苦しんだ。何を選ぶべきなのか。誰の想いに答えるべきなのか。私はそれまで、あまり自分の我を押し通すようなことをしてこなかったから、尚更どうしていいか分からなくて……。そして選んだのは、誰かのために生きる事ではなく、自分自身の為に生きる事だった。死んでしまった神獄の代わりに《九尾狐》を守る……それがあの時、私が最も望んだことだったから)
けれどその結果、真澄は償いきれない業を負うことになった。我が子を切り捨てるという、途轍もなく深い業を。
(そう……私にはあの子の母親を名乗る資格なんて無い)
式部真澄は最終的に帯刀火矛威と轟鶴治、どちらも選ぶことなく、紅神獄になることを選んだ。どちらの気持ちにも応えることなく、自分の願いを最優先にしたのだ。おまけに生まれた子供を火矛威に押しつけて。
そんな自分勝手に生きてきた人間が何故、我が子に会いたいなど願えるだろう。真澄は紅神獄に成り替わることを選んだ。そして、紅神獄が守ろうとした《九尾狐》を代わりに守ることを望んだ。その瞬間に式部真澄という人間は死んだのだ。
だから火澄とも、もはや親子でもなんでもない。神獄のこの命は《東京中華街》と《レッド=ドラゴン》のためにあるのだから。
(私にできることは、ここで祈ることだけ。火矛威やあの子……火澄がどうか幸せに暮らせるようにと……!)
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