第38話 紅神獄の役目

3/3
前へ
/86ページ
次へ
 深雪は真澄が紅神獄(ホン・シェンユイ)となったことを知って、それでも心配している。真澄と特別な関係になることを、あれほど恐れていたくせに、自分には関係ないと見捨てることもできないのだ。  その優しさに少女だった真澄が強く惹かれたのは確かだ。だが一方で、深雪の優しさはどっちつかずの中途半端(ちゅうとはんぱ)なものでもあった。真澄は深雪に想いを打ち開けることすら許されず、当時は人知れず苦しんだ。それもまた事実だ。  深雪は二十年前と何ら変わっていない。そのことが嬉しくもあり、腹立たしいようでもあり、何だか奇妙な感じだと神獄は思った。竜宮城から戻ってきた浦島太郎は、ちょうどこんな気分だったのだろうか。   神獄が物思いに(ふけ)っていると、突然、エニグマが声をかけてくる。 「雨宮深雪に連絡を取らないのですか?」 「……何ですって?」   何故、情報屋ごときに余計な口出しをされなければならないのか。神獄は怒りに眉を跳ね上げた。  しかしエニグマは、いつものふざけた言動を見せることなく、神獄に、ずいと顔を近づけてくる。 「いえ、出過ぎた真似だと承知しています。けれど一度くらい『式部真澄』に戻っても良いのではないですかねぇ? あなたの命も長くはない。あなたはこれまで十分なほど紅神獄としての役目をまっとうしてきたのです。最期くらい、個人的な我が(まま)を叶えても良いのではありませんか?」   だが、神獄は無言で右手を振り上げると、容赦なくエニグマの頬を叩いた。パアン、と甲高い音が広々とした寝室の中に響き渡る。 「お黙りなさい! 情報屋ごときが、この私に意見するなど……分を(わきま)えなさい!! 私は紅神獄です。式部真澄の知り合いとは会う筋合いなどありません!」  神獄が声を張り上げると、エニグマは殴られたほうの頬を手で撫でながら、再びこちらへ視線を向けた。サングラスの向こうにある瞳が、どんな色を湛えているは分からないが、彼がいつものふざけた態度を引っ込め、真顔になったことは察せられた。 「……なるほど。しかし、お忘れなきよう。この《監獄都市》は決して安泰とは言えません。物事にはタイミングというものがあります。機を逸すれば、希望というものは極度に叶えられにくくなってしまうものです……どうか後悔をなされませんよう」  神獄はエニグマの顔をじっと見つめた。この情報屋が本心では何を企んでいるのか、その真意を見抜こうとして。  この男は本当に心の底から神獄を気遣っているのだろうか。いや、そんな事はあり得ない。情報屋は常に自分の利益を考えて動く。簡単に情にほだされるような男なら、《監獄都市》の権力者を相手取って商売するような地位に上り詰めたりはしない。  この男には間違いなく目的がある。あるいは―――他の依頼者(クライアント)の意向を汲んでいるかの、どちらかだ。 「ふ……どうやら何としてでも私を深雪と合わせたいようね? それは誰の差し金なのかしら。私が深雪と会うことで誰の目的が達成されるのでしょう?」 「……」 「分かっているのよ。あなたの言う『重要な顧客』とやらが、私だけではないということは。お前は本当は誰の命令で動いているのでしょうね?」  神獄は優美に笑んだ。口元は美しい弧を描いているが、目は微塵(みじん)も笑っていない。少しでも隙を見せたなら、その喉元に喰らいつき、引き裂いてやる。アーモンド形の弧を描く瞳の奥では凄まじい殺気が渦巻いている。  それには、さすがのエニグマも返す言葉が無いようだった。これ以上、ひと言でも発すれば喉元を喰い千切ってやる。そう言わんばかりの神獄の気迫に完全に呑まれている。  もしくは神獄が本当に雨宮深雪と会うつもりが無いのか、確かめようとしているのかもしれない。  やがてエニグマは、こちらの思惑を読み取ることを諦めたのか、「ふ」と笑みを漏らす。 「ふふふふ……ははははは! さすが紅神獄さまですねぇ! 十年近くにわたって六華主人を務め、《レッド=ドラゴン》を支配してきただけのことはある。……あなたは今や完全に紅神獄ですよ。いや、紅神獄本人よりも、ずっと紅神獄らしい!!」 「……」 「また日を改めて伺います……今日のところはこれで」  そう言ってエニグマは道化師のようなお辞儀をひとつすると、現れた時と同じように部屋を覆う闇の中へと溶けて消えていったのだった。  紅神獄は呼び止めることもなく、無言で黒ずくめの情報屋を見送った。やがて静まり返った寝室の中で、ひとり思う。 (私は深雪を頼らない。私は式部真澄ではなく、紅神獄なのだから。それに……深雪の顔を見たら、きっとあの人のことを思い出してしまう……!)  轟鶴治(とどろきかくじ)は深雪によく似ていた。深雪に会えば、きっと轟鶴治を思い出してしまう。そうしたら、《レッド=ドラゴン》や《東京中華街》の為に生きると決めた決心が揺らいでしまうかもしれない。その事を神獄は恐れていた。  十四年前、本物の紅神獄が毒殺された時、真澄は最後まで悩んだ。《九尾狐(チウウエイフ)》を取るべきか、轟鶴治を取るべきなのか。そして真澄が選んだのは《九尾狐》だった。  それを今さら私情にかまけて軌道変更はできない。神獄が真澄に戻るようなことがあれば、きっと火矛威や火澄に迷惑がかかるし、《レッド=ドラゴン》にも混乱をきたしてしまう。 (私には最後の仕事が残っている。次期六華主人を選ぶという、最後の仕事が。それまでは私は何が何でも『紅神獄』でなければならないのよ……!!)  エニグマの言ったことは本当だ。神獄の命は長くない。もともと真澄は身体が弱かった。《ウロボロス》にいた時からたびたび体調を崩していたし、よく保ったほうだと自分でも思っている。  だから―――だから最後まで自分の役目をまっとうしなければ。  神獄が己の役目をまっとうし、《監獄都市》の秩序を保つことができたなら、きっと《中立地帯》にいる火矛威や火澄のためにもなる。  神獄の目はエニグマが去った後も、しばらく新宿の明かりを見つめていた。凛とした月明かりが、ただひっそりと、その姿を照らし出していた。
/86ページ

最初のコメントを投稿しよう!

56人が本棚に入れています
本棚に追加