ドアを叩く手

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 しかし私の中では、あの壮絶な修羅場の際にすでに一度母は死んだことになっている。帰宅するやいなや、リビングのドアを激しく開き、彼女が足元に落としたバッグから出刃包丁が飛び出して、父に投げつけた眼鏡は割れて、掴みかかっていった父に首を絞められながら暖炉のレンガに後頭部を打ち付けられた時の鬼のような形相を、どうしても忘れることができなかったせいもある。  両親が別居に踏み切ったきっかけになった事件の日、私が学校で急に高熱を出して早退したときに起きたので、兄も妹もあの凄まじい臨場を目撃していない。母はその直後、手首に包帯を巻いた。ほんのりと血の匂いを漂わせて、青白い顔で私に言った。 「らくになりたいよ」  隙あらば自殺しようとする母の心の病は、私達が生まれるずっと前から始まっていることを知るのは、それからずっと後のことだ。  その夜は母が私たちの毛布を掛けに来て、ほっぺたにキスをしてまわっているという夢を見た。明け方、トイレに起きた兄が「真夜中に母さんが枕元に立ってた」と言った。  兄はそれ以前からよく、真夜中に視線を感じて目を開けると、母が頭上に正座して真上から顔を覗き込んでいると言って怯えていたのだけど、怖いときと怖くないときがあって、それも含めて長年の謎になっている。  それからしばらく音信不通だった母から電話が来て、およそ二か月振りに声を聴いた。その声を聴いて、私は確信した。あの日の夜、玄関のドアの向こうで叫んでいた母の声が、やはり紛れもなく母の声だということを。  自分が辛いときでも子供たちが心配だったんだろう、とのちに祖母は語っている。私もそう思い、納得したのだった。  あの日。母は生霊になって、自分自身が辛く苦しいときであっても子供たちが心配で会いに来てくれたのかもしれない。しばらく後で母に聞いたら「へぇ」と他人事のように返事をして、へらりと笑っただけだった。  終わり
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