第一章・紫園

8/12
前へ
/19ページ
次へ
 秧真は楼主とその妻伊珠(イシュ)のあいだに生まれた一人娘で、藍那より三つ下の十五歳である。  そもそも、藍那がこの金亀楼に世話になるきっかけというのが、街でやくざものに絡まれていた秧真と侍女の(セツ)を助けたことだった。  四・五人はいたであろう屈強な男たちを、剣もぬかずにあっという間に蹴散らした。その勇姿がよほど眩しかったと見え、礼がしたいと藍那をこの金亀楼へと引っ張ってきたのである。  そのとき、藍那はようやく帝都にたどり着いたばかりであった。これから職を探そうとしていた矢先で、事情を聞いた杷萬が用心棒の話を持ちかけた。  なんでも以前雇っていた男が、娼妓の一人と駆け落ちをしてしまった。それ以来、女剣客で腕利きを探しているとのこと。互いの需要が一致し、こうして藍那は金亀楼の用心棒へと収まった。  秧真にはそれ以来、姉のように慕われている。  時折、私にも剣術を教えてほしいとねだられるが、さすがにそれは却下した。剣を持つには秧真の手はきれいすぎるし、柔らかすぎる。 「すごかったですわ。今でも自分の目が信じられないくらいです」 「そんな。ほんの簡単な套路の応用ですよ」 「ねえお父さま、お父さまからも先生に仰って。わたし、先生から剣を習いたいわ。わたしも先生みたいにかっこ良くなりたいの」  愛娘のわがままなお願いに、さすがの杷萬も困惑顔でヒゲに覆われた頬を撫でつけた。ここで剣など女のやるもんじゃないと一喝すれば、藍那の立場がないからだ。  藍那は苦笑し、出された茶を一口すすって杷萬に助け舟を出した。 「お嬢さま、女が剣を遣うということは、人並みの女の幸せを捨てるということです。私をご覧になっても分かるでしょう。この歳になり、嫁のもらい手一つないのですよ」 「そんなの別にいいわ。結婚だけが幸せでもないでしょう。先生はご自分の腕一つで身を立てて、わたしはそういうのに憧れるのです」 「秧真、生意気なことを言うもんじゃない。お前は世間を知らないからそういうことが言えるんだ。女が一人で生きていくのは並大抵のことじゃないんだぞ。先生はご自分でたいそう苦労なさっているから、お前に同じような苦労をさせたくないと、そう仰っているのだ」 「お父さまこそ、いつまでもわたしを子ども扱いなさる。そのくせ二言目には早く大人になれと仰って、矛盾しているわ」  確かにそうだと藍那は思わず笑ってしまった。  十五といえば、いい家の娘なら婚約する歳だ。十五で婚約し、二年間の花嫁修業を経て十七歳で結婚するのが慣例(ならわし)である。  つまり十五歳は子どもから大人へと変わる入り口でもあるのだが、杷萬は一人娘を手元に置きたいのか、まだ婿を探そうとしていない。そしていつまでも娘を小さな子ども扱いしたがっていることも、誰もが承知していることだった。 「お前はいつからそんな――」  と言いかけた父親を手で制止し、藍那が口を開く。 「まあでも、お嬢さまのその心意気は買いましょう。ですが剣の修業は厳しいですよ。それに耐えられますか?」 「耐えられますわ。先生のように強くなれるのなら頑張ります」 「分かりました。ではまずは適性検査です。両手を見せていただけますか」 「手、ですか?」 「はい。剣を遣うものには適性があります。それが一番よく現われるのが手なのです。ちゃんと遣えるかどうか手を見て判断しますので、それでだめなら諦めて下さい」 「は、はい……」  藍那の隣席に坐した秧真の両手をとった。  香油を手のひらにすりこんだのだろう、薔薇のいい香りがする。差し出されたそれはふっくらと柔らかく、象牙の拵えもののように白くシミ一つ浮いていない。  生まれてこのかた、水仕事や力仕事とは無縁だったものだけが持つ美しさだ。  神妙な顔つきで手のひらや指さきに視線をはわせ、じっくりと検分する態を装ってから言った。 「ふむ、指の長さはそこそこいいのですが、やはり腱の強度が足りませんね」 「ケンのキョウド?」 「さよう。腱とは指の筋肉を動かす大切な部分です。この部分の強度は生まれつきで決っております。ここが弱いと剣を握る力が弱く、しかもすぐ怪我をして指を痛めてしまいます。お嬢さまの手は残念ながら、武人の手ではありません」 「そんなあ」 「お嬢さま、私が剣を遣うのは、自分で自分の身を守っていかなければ生きていけなかったからです。ですがお嬢さまのお身はこの私が守ります。お嬢さまが剣を遣う必要などありません。なぜなら、私がお嬢さまの剣なのですから。それではご不満ですか?」  その言葉に秧真の膨らませた頬が緩む。藍那に顔をぐいと寄せ、きらきらと期待を孕んだ目でじっと見つめた。 「本当、先生? ずっとわたしのそばに居てくれる?」 「ええ。でもお嬢さまがお嫁さんに行くまでですが。私はあくまでここの用心棒ですので」 「じゃあ、わたしが先生をお父さまからお嫁入りの道具としてもらいうけるわ。そして、お嫁さんになるときは一緒に来て」 「え、ええ?」  藍那はちらと杷萬へ視線をやった。父親はどうにか娘をまるめ込んでくれと、藍那に目で頼みこむ。やれやれ。自分の提案にはしゃぐ娘の肩にそっと手を置き、 「そうですね。ただそれはお嬢さまのお婿さんの許可もいただかなければ。もしお婿さんになる方がいいと仰れば、そのようにしましょうか」 「ほんとう?」  秧真が両腕を藍那の首にまわし、勢いよく抱きつく。 「先生、ぜったいぜったい約束ですからね!」  甘えた声でそう言い、藍那の頬に頬を擦りよせてくる。十五歳といっても秧真は他の娘より子どもっぽい。まるで小さな子どもがするように、藍那にべったりとくっついてくる。 「ほらもういいだろう。(ハレム)へ下がりなさい」 「はあい」  単衣の裾を軽やかにひるがえし、秧真は部屋を下がる。花の残り香が漂うなか、水煙管の吸い口を脇へと押しやり、杷萬は腕を組んだ。 「で、あの男のことですがね。先生はどう思います?」
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加