9人が本棚に入れています
本棚に追加
「どう思うって……」
口ごもり、先ほど感じた得体のしれぬ気配を思い出した。まるで深い闇の奥から、じっと背後を窺われているような――。
気のせいかも知れぬが、そう言い切れぬ何かが彼にはある。しかもあの男は母と自分しか知らないはずの天星羅を知っているのだ。
考え込んでいると、
「いえ、どうもおかしな話でしてね。なんか薄気味悪いんですわ」
杷萬にしては珍しく、真面目な顔で眉を曇らせる。
彼の説明によれば騒ぎの発端はこうだ。
あの三人がそれぞれ遅い朝食をすませ、さて昨夜のお代をという時のこと。こともあろうに、一人が財布を忘れてきたと言いだした。
――金はちゃんと払う。実は笛堵街にある請負屋に昨日の仕事の金を預けてある。だから、それを取りに行かせてもらえないだろうか。
だいたい財布を忘れて色街に来るもないものだ。
要は遊び代を踏みたおす常套手段なのだが、杷萬はとりあえず三人のうち一人をその請負屋に行かせることにした。もちろん男衆の一人が同行する。仮にその客を何某と呼ぼう。
何某と男衆は部屋を出て、中庭を見おろす回廊を歩いた。そのとき、噴水の傍をふらふらと歩いている下男が二人の目にとまる。そして彼が両手に抱えていたのが、預け処にあるはずの何某の剣だったから大変だ。
これ幸いとばかりに何某が騒ぎ始めた。いったいどういう了見だ、ここの妓楼は武人の魂とも言える業物を、あのような下賤の輩に無断で触らせるのか――と。
「しかし預け処にあるはずの剣を、どうやって持ち出せたのでしょう」
「それが、圓湖に訊いてもさっぱりだと言うのですよ。ご存知の通り、預け処のものは圓湖が厳重に保管しております。彼が言うには、知らないあいだに消えたとしか思えないと」
「ふむ」
「しかも安瑛がいうには、奴さん剣にしがみついて、しばらく離れようとしなかったらしいですわ。何某が蹴り飛ばしてようやく放したものの、なにやら剣にえらく執着するところがあるようで」
たしかに。天星羅ににじり寄るときの彼には、鬼気迫るなにかがあった。いったい紫園という男はなにものなのか。
「彼は、本当に記憶を失っているのでしょうか」
「よくわかりませんな。そういうふりをすることもできますし、ただ言葉が不自由なのはどうも本当のようですが。ただですな、これはここだけの話なんですが、あの男はどうも笆癩の民らしいんですわ」
そこだけひそめた杷萬の声が、どこか不穏な響きを帯びる。
笆癩の民――。
そもそも笆癩とは帝国民たちによる蔑称で、もともとは夷修羅人という。昔は南蛮と呼ばれた彼らを、いつしかそう呼ぶようになった。
ここより遥か南の地、塩海のほとりに栄えた彼らの王国、《慧焔都》。
羅典に滅ぼされたのち、奥尔罕に支配が変ったのは今から二百年ほど前のこと。
もっとも帝国に領地を侵され属領となった国など、この他にいくらでもある。しかし他の属領が徐々に同化していったのに対し、夷修羅たちはいまだに強い反抗心をくすぶらせ、ことあるごとに小規模な反乱を起こした。
「先生もご存じでしょう。笆癩の民の験のことを」
「彼らの父なる神との契約の証、でしたか」
「つまり、そのですな――」
「大丈夫です。それくらいの知識ならありますよ」
藍那は言葉を濁した杷萬に笑ってみせる。
験とはすなわち、笆癩の男子のみが受ける割礼痕のことだ。生後七日目に神官によって性器の包皮を切り取られる。もともと遊牧民たちに広く行われていた衛生行為だったのが、いつしか彼らのみに残された慣習となった。
割礼は彼らの父なる神との契約の証であり、笆癩を見分ける格好の印となっている。もっとも《慧焔都》が滅んで三百年あまり。彼ら笆癩のなかにも慣習や契約の教えを捨て、帝国の文化に積極的に同化する動きもあるとか。
「とすると――つまり、あの紫園にはその割礼痕がある……ということですか」
「杏奈がこっそりとあたしに教えてくれたのですよ。口外はしないでくれということですが、先生には仰るべきだと判断しましてね」
「ふむ。それで、ご主人はどうなさるおつもりですか」
「それがですなあ、困っているのですわ」
杷萬は肥えた身体を揺すった。
最初のコメントを投稿しよう!