第一章・紫園

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「杏奈とは長い付き合いで、その彼女からの預かりものです。簡単に放り出すわけにもいかんのですが、あたしはどうもなにか得体のしれないものを感じるのですよ。正直言うと気味が悪いのです。勘のようなものですがね。それで先生にどうすればよいのか、なにかお知恵を拝借出来ないかと思いましてね」  本来なら藍那が受けるような相談ごとではない。客とのいざこざなら日常茶飯事だし、店のことに藍那が口をさしはさむこともない。しかし、おそらく、杷萬は正直な見解を述べているのだろう。  記憶を失くした、おまけに言葉も不自由な使いものにならぬ笆癩など、普通なら放り出してしまえばよい。ただそれだけの話だが、杏奈から預かった手前それもできかねる。  杷萬はしたたかな男だが妙に義理がたい面があり、一度引き受けたものごとは最後まで面倒を見た。だから紫園のことを扱いかねている。  それに商売人のカンというものはバカにできない。  海千山千、多くの人間を見てきた杷萬には独特の嗅覚がある。その彼が紫園を気味悪く思うのは、彼に尋常ではない《何か》を嗅ぎとっているからだ。藍那が先ほど背後に感じたような、どこか不穏な気配を。 「わかりました。彼については私も少々思う所があります。及ばすながら、この件は私に任せてくれませんか?」 「そう仰ってくれると思ってましたよ。先生にお願いできれば安心です。なにぶん言葉も不自由で、意思の疎通もままならないでしょうが」  杷萬は再び水煙管の吸い口をとった。藍那にも彼の気持ちは分かる。口がきけず、周囲と打ち解けない、まるで《拾ってきた捨て猫》のような男。ましてや、あのような騒ぎを起こしたとあれば馘首(クビ)になって当然だ。  杏奈との義理を通し、このまま彼を置いておけば奉公人たちに示しがつかなくなる。特に男衆たちの不興を買うのは目に見えていた。  そこに杷萬が    ――彼についての処遇は先生に一任した。  とひと言言うだけで、とりあえずは収まるのである。男衆も含め、この金亀楼で藍那に対してあれやこれやと文句を言う人間はいない。  杷萬の書斎を辞し、藍那は台所へと向かった。大鍋で羊肉を煮ている亜慈(アジー)に紫園の居場所を尋ねると、彼が男衆たちに館の裏手へと連れ去られるところを見たらしい。  柴門(シモン)圓湖(マルコ)安瑛(アンデレ)。  その他に苫栖(トマス)もいたとのことで、よりによって男衆でも血の気の多い連中ばかりだ。  これは急いだ方がいいかもしれない。  慌てて裏口から飛び出し、厠の汲みとり口のある裏手へと向かう。  案の定、紫園は彼らに取り巻かれ、したたかに殴られていた。  殴られた反動で背後によろめいた身体を一人が受け止め、受け止めた身体をくるりと返してまた殴る。殴られている当人は抵抗もせず、ぐったりと(うつむ)いてされるがままだ。 「旦那に恥をかかせやがって、こん畜生。どういうつもりだよ、ああん?」 「こいつ、先生によけいな手間を取らせやがって」  毒づきながら男たちは(こぶし)をふるっている。多勢に無勢は感心しないが、それでも彼らの心情に嘘はない。  狸ではあるがどこか義理堅い。そんな楼主に、ここで働く男たちはそれなりの敬意を払っている。荒くれながら雇い主への忠義は本物だ。だからこそ客とのいざこざを起こした紫園に対して、いたく腹を立てている。 「いいかげん、それくらいで勘弁してやってくれないかな」  藍那のひと言でいっせいに強面たちが振り返った。その表情は悪さを見られた悪餓鬼そのものだ。紫園の胸ぐらを掴んでいた苫栖(トマス)にいたっては、慌てて紫園を放り出すと、ばつが悪そうに両手を背後へとまわす。 「せ、先生、いつからそこに」 「今来たところ。お前たちの気持ちも分かるけど、多勢で一人をってのは感心しないね。それにこの男については、旦那さまから私が一任されることになった。今後、お前たちの手出しは無用だ。殴らなきゃならない時は、私から鉄拳をお見舞いする。いいね?」 「せ、先生が!? 旦那から!? な、なんでっ」 「それについては私からお願いしたことだ。ちょっと気になることがあってね。ささ、いいから仕事に戻りな。昼間だからってここで油売ってたら、旦那さまに叱られるよ」  不服をあからさまにしながら、それでも言われたとおり、しぶしぶ表の方へと足を向ける。柴門は苦虫を噛み潰した口を歪め、地にペッと唾を吐いた。 「おめえ、肥壺はちゃんと出しとけよ」  尻もちをついた格好の紫園にそう言い捨てる。そうして彼らが立ち去った後も、紫園は変らずうなだれたままだ。まるで息を潜めるようにじっとしている。よほど奴らの拳がきいたのだろう。  そんな紫園が可哀想になり、藍那は優しく声をかけた。 「災難だったね。だけどあいつらにも一分の理はある。痛かっただろうけど、高い授業料だと思っておけばいい。どれ、顔を見せてごらん」
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