第一章・紫園

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 そう言ってひざまずき、紫園の頬に手を添えた。びくりと身体を震わせたが逃げようとはせず、脅えた視線を藍那へとさまよわせる。  いいように殴られたはずの頬やら顎やらを(あらた)めた。そして、たいした怪我を負っていないことを確かめ、息をのむ。  あれほど殴られていれば、皮膚や骨にそれなりの損傷があるものだ。ところが、頬も顎もうっすらと赤くはなっているものの、まるで効いておらず、まるで赤子にはたかれたようである。  藍那は慄然とした。 (この男……まさか……彼らの勁脈を殺していた?)  ふるわれた拳からの勁はもちろん、まともに受ければ大きな痛手である。しかし脱力や呼吸を合わせる呼応によって勁を殺し、その損傷を大幅に減らすことは可能だ。  もちろん武術の心得のある者でなければできない芸当で、しかも勁脈相殺はかなりの技術を要する。つまりは手練れでなければ使えないのだ。  それをこの男が、無意識のうちに使っていたのだとしたら――。  藍那の背筋をぞくりと冷たいものが(はし)る。  まさか。ただの偶然で、考えすぎではないのか。  そう楽観視したい一方で、本能が頭のなかで警告の半鐘を鳴らす。この男は危険だ。近づくな――と。  それでも。  彼の両肩に手を添え、端整な顔をじっと眺めた。  心底から怯えきった様子はどうやら本物らしく、おどおどと藍那を見つめ返す紫色の瞳の底に、凍てついた孤独を沈みこませていた。  母と同じ目だと藍那は、いや璃凛は思った。  母、藍那と同じ、決して癒えることのない哀しみを知っている瞳――。  その瞳から、璃凜は顔をそむけることができなかった。  ***  母から剣を習うようになったのは、まだ六つか七つの頃だ。  そのころ璃凜と母は帝国領の辺境、()州に住んでいた。近くに大きな湖があり、豊かな水脈を誇る風光明媚な土地である。  辺境ながら古来より水運と国境警備の要とされた。それ故、覇権をめぐっての争いが絶えず、国境線が引き直されるたびに支配者が変わった土地だ。  百年程前までは華羅の領地であったのが、奥尔罕(オルハン)中興の祖、(コウ)帝の御代に帝国領となり今に至る。  華羅の支配が長かったせいで、街は現在も東域の名残が色濃い。喇嘛(ラマ)教の寺が多く、家の屋根には瓦を敷き詰め、店の看板には華名(カナ)文字が躍る。  富めるものはこぞって華羅の時代に建てられた豪奢な屋敷に住んだ。璃凜が母と暮らしていたのも、そんな屋敷の一つである。  母はいわゆる《囲われもの》だった。住んでいたのも母を囲った男の持ち物だ。屋敷には侍女が一人とばあやが一人。通いの料理人と使用人が数人。  母は左の手首から先がなく、いつもそれを長めに仕立てた単衣の袖で隠していた。娘の璃凜から見ても充分に美しい人であったが、普段は人形のように表情が乏しく、一切の感情を表に出さなかった。  家事は全てばあやが取り仕切り、なにをする必要もなく、しなかった。日がな一日外を眺め、時には一人で華羅将棋をさす。今考えてみれば、使用人のなかには母のことを《痴人(デリ)》と誤解していた者もいたに違いない。  そんな母に剣を習うようになった。  教わるのは決まって通いの使用人たちが居なくなった夜。教える母は昼間とは別人で、双眸(そうぼう)に力を宿し、言葉には威厳があった。  忘れもしない。母に剣を教わった初日のこと。 「手を見せてごらん」  命じるままに広げた小さな手をとって、母は仔細に眺めた。
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