第一章・紫園

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「指の長さはまあまあだが、なにぶん手のひらがそんなに大きくない。本当なら剣にも楽器にも向かない手だ。でも、そんな手でもやりようはある。事実私がそうだった」  母は右の手のひらを璃凛の眼前に広げて見せる。たしかに母の手は小ぶりで、けっして大きくはない。  璃凛はおずおずと手を伸ばし、母の手のひらにそっと触れた。厚い皮に覆われた指の付け根は硬く隆起し、まめが潰れた痕があった。今は失われてしまった母の左手も、かつてはこのような感じだったのだろうか。  母は左脇に挟んだ天星羅(アストラ)を目で示し、言った。 「お前も私も大きくて重い剣は扱えない。だから、この天星羅は私らのようなものにはちょうどいいのさ。蜂のひと刺しが命取りになるように、大事なのは剣の大きさや太さじゃない。いかに効率よく、無駄のない動きで相手の急所を突くかだ」   母の指が璃凛の眉間と喉、そしてみぞおちを差す。それから母は髪を結わえていた玉簪を抜いて細く尖った先へ視線をやった。 「見て御覧、こんなに細く小さな武器でも、使いようではあっという間に相手を殺すことができる。人の体はね、お前が考えているよりずっと脆くて壊れやすい。壊すのに大きな力も太い剣もいらないんだ」  だから、と母は言葉を続けた。 「双極剣は力のないものでも己の身を守れる技だ。相手の勁を己の勁に転じることに活路を見出す。そのために必要なものは相手の技を見極める目と、なにが一番相手にとって有効な技かを瞬時に考え、即断する決断力だ」   母の言葉は幼い璃凛にはまだ難しい。それでもひと言も聞きもらすまいと、母の唇をじっと眺めていた。昼間と違って紅も差していないのに、赤くつややかで、まるで芍薬の花びらのようだ。 「まずは形からだ。套路(とうろ)を身体に叩き込んで、寝ていても出来るくらい繰り返すんだよ。正しい姿勢と呼吸、そして緊張と脱力を切り替えるコツをつかむんだ」  それから毎夜。  璃凛は母の指導のもとで来る日も来る日も剣を振った。套路(とうろ)は足法や剣筋、呼吸を学ぶ型稽古だ。それを飽きるほどなんども繰り返す。  最初は軽い棒きれから始まり、それが白木の木刀に代わるまでに一年。その頃から母は右手に剣を取り、打ちあいの稽古をつけてくれるようになった。  最初は璃凛の好きなように打たせる。一方的に打たれているようで、その実、巧みに璃凛の太刀筋を育てていたのだと今なら分かる。  ある日、母は璃凛に言った。 「お前は力も弱いし、素早さだって人並みだ。だが勘がとてもいい。その感覚を磨くんだ。磨けば相手が動くより早く、その先を読むことができる」 「それってかあさま、心が読めるってこと?」 「そうじゃない。相手の目の動きやほんの僅かな息づかいの変化で、次の動きを読むんだ。お前は時々びっくりするくらい勘が鋭いところを見せる。自分でも気がつかないうちに、相手の仕草を読んでいるのさ。それを磨けば、お前はとても強くなれるだろうね」  その言葉を励みに、璃凛はせっせと剣を振りつづけた。  月日がたち、最初は重かった白木の木刀が軽く感じられるようになると、母の教えは厳しさを増した。甘い太刀筋を跳ねのけられ、地面に容赦なく叩きつけられる毎日。  あまりの厳しさにべそをかいても慰めの言葉一つかけず、璃凜が立ち上がるのを母は無言で待っていた。  それでも璃凛は分かっていたのだ。どれほど母が厳しくても、腕や足に傷が耐えなくても、顔には傷が残らぬよう気を使ってくれていることを。  璃凛が双極剣の最終套路、第四十七式通称(両義)を教わり始めたのは十三のときだ。既に母に剣を教わってから六年ほどが経っていた。  全て憶えて母の前で打った。  そのとき――。 「もうお前に教えることはなさそうだね」  そうぽつりと呟いた母の眼は、酷く寂しそうだった。そのとき璃凛は悟ったのだ。こうして璃凛に剣を教えていても、母はいつも独りだったのだと。  そして今。  あのとき母に見たのと同じ孤独に凍てついた目を、藍那は紫園に見た。 「手を見せてごらん」  思わず母と同じ口調で藍那は尋ねていた。  紫園はだまって、両手のひらを藍那に差し出す。  大きな手のひらだった。指も長く、剣や楽器に向いた手だ。  厚い皮に覆われた指の付け根には、昔の母と、そして現在(いま)の自分と同様、まめが潰れた痕があった。
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