幕間・蒼月

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幕間・蒼月

 初めて《剣術》に触れた日のことをはっきりと覚えている。  あれは璃凛がまだ六つか七つのときであった。  用足しのために厠へたち、その帰り、いつもなら真っ直ぐに寝床へ入る足を庭へと向けた。なぜならその夜は丸い月が煌々(こうこう)と天にかかり、全てのものが青ざめた光の洗礼を受けていたからだ。  子ども心にもそのさえざえとした美しさに興が湧いた。今を盛りと咲かせている花々が、この月明かりの下、どのように眺められるのか――それが見たかったのである。  庭を眺められる回廊に出ると誰かがいた。  月明かりに浮かぶ木や草花に囲まれ、敷かれた玉石の上に立っている。こちらへ背を向けたその姿を最初は母と分からず、何者かと思わず息をのんだ。 男物の白袴に重ねた黒い長単衣。無造作に結わえた腰帯。背にかかる黒髪は一つに束ねられ、照らす月光に濡れたような輝きを帯びている。  袖からのぞく左手に手首から先がなかった。  それでようやくその者を母と認め、安堵の息を漏らす。が、彼女の右手に見たこともない剣が握られていることに気づき、ふたたび息をのんだ。  柄から伸びた白刃はぴったりと手首から肘に寄せられ、まるで母の右腕が月光に光っているように見える。ふいに。  母が動いた。  柄が握り直され、構えられた剣先が天を指す。  足が地を滑り、空を突いた剣が旋転して前方を薙ぎ払った。虚空を切り裂き、刃を閃かせながら再び旋転しては目に見えぬ眼前の敵を突く。  独立反刺俯歩横掃   向陰平帯向陽平帯    はじめそれは、旅芸人たちの剣舞を思わせた。いつかばあやと出かけた曾妃耶(ソフィア)寺院のお祭りで見物したことがある。しかしそれが剣舞とは似て非なるものだということは、幼い璃凜にもなんとなく理解できたのだ。  母の鋭い眼光と、無駄のない一挙一足。凄烈な力を漲らせた太刀筋。  物陰から眺めている璃凜の肌がひりつくほどの緊迫感。  身をすくませながら凝視する璃凜の前で、母は剣を振り続ける。    独立天刺虚歩地戴  陽弓歩刺転身斜帯  剣はもはやただの鋼にあらず。  それは母の一部となって天を裂き、地を薙ぎ、空を払い、月光にその白さを閃かせて舞っていた。かたい筈の刃がまるで鞭のようなしなやかさで宙に躍る。  とん。  母の足が地を蹴ってひらりと宙を飛んだ。しなった身体が着地と同時に反転し、振り向きざまに刃が大きく空を斬る。その時。  璃凜は思わずあっと声を上げた。  照らす月光が刃の上で細かな粒となり、まるで玻璃の粉のように剣身をすべりおちていく。  一斬、二斬、三斬。母の剣が続けて月の光を斬り裂いた。白刃(はくじん)は弧を描きながら振りあげられ、その度に月華はきらめく光跡を残しながら散っていく。  陽虚歩撩陰弓歩撩  転身回抽並歩平刺  そして母は。  初めて目にした母の知らぬ一面に、璃凜はわき上がる悦びを抑えられなかった。  それまでの璃凛が知っている母といえば、美しくはあるが覇気のない、どこか人形めいた女である。いつも気だるげに脇息にもたれては、日がな一日ぼんやりと窓の外を眺めるか、あるいは一人で華羅(カラ)将棋を指しているかのどちらかだ。  生まれてこのかた、璃凛は母が楽しそうに笑っている顔を見たことがなかった。母を目の前にしても、母はここではない何処か遠くにいるのではないか――そう思っては何度不安に駆られたことだろう。  週に一度、この屋敷の主(母がその男に囲われていると璃凛が知るのは、ずっとあとのことだ)が顔を出すときも、母はにこりともせずに彼を迎えていたものだ。その母が。  眼前の母の美しさに、璃凜は心を奪われていた。  双眸に宿らせた強い意志の光。  斬るべきものを一瞬たりとも見逃さぬ俊敏な視線は、それ自体が鋭利な刃のようだ。  頬にも唇にもいきいきとした生気がみなぎり、青白い月光に照らされてなお赤い血のつややかさを失わない。  剣とともに宙に弧を描く左手は手首から先は欠けているものの、そこにはいささかの不自然さもなかった。  迎風撣払順水推舟  流星赶月天馬行空  母の剣が風を斬る。  裂かれた(ちり)が空の冷気に(こご)って星となり、星は月を追いかけ、やがて空を駆ける天馬と化す。  そこにあるのは一つの宇宙であった。森羅万象が渦を巻き、その渦の中心に母は全きものとして存在しているかに見えた。  丁歩回抽懐中抱月  旋転平抹風掃梅花 《それ》がいつ終わったのか、璃凛はよく覚えていない。  気がついた時には母にしがみつき、それを教えてくれとねだっていた。母は璃凛を見ても息ひとつ乱さずに、  ――教えるのは構わないがね、お前にとってそれは不幸なのかもしれない。  と言った。  ――いいかい、璃凛。これはわたしの師匠、お前のお祖父さんの言葉だ。過ぎたるものを望むな。大きすぎる力は持ち主も周囲(まわり)も不幸にする。お前が剣を習うのはいいけれど、ちゃんと自分の分をわきまえるのだよ。それをわきまえないと――  そう言って母は、手首から先の欠けた左手を璃凛の目の前に差し出した。  ――こうなるのさ。  そうして璃凜は母に剣を習いはじめた。  双極剣第三十四式《散華》。それがあの日見た套路(とうろ)の名である。  
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