幕間・蒼月

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 母がなぜ左手を失うことになったのか、璃凛がその理由を知らないまま母は逝った。  璃凛が十四のとき懐剣で喉を突き自死したのだ。その前夜、璃凛が双極剣第四十七式《両義》を打ち、それを見た母はぽつりと呟いた。  ――もうお前に教えることはなさそうだね。  翌日、窺い知れぬ哀しみと孤独を重石にして、母は二度と上がれぬ淵へと沈んでしまった。  侍女が寝台で血まみれの母を見つけたのは山羊月の二十五日。とても冷えた朝だったと記憶している。どこを探しても遺書はなかった。  懐剣で喉を突いたとき母が苦しんだのかは分からない。  ただ、おびただしい量の血が寝台の敷布を濡らし、端から滴り落ちたものは床に消えないシミを作っていた――侍女の麻里(マリ)は唇を震わせながら、蒼白の面持ちでそう語った。  璃凛が見たのは通夜の夜、棺におさめられ、血を拭われて化粧を施された母の顔だ。その顔は限りなく穏やかで、少し笑っているようにも見えた。  そして今宵。  母の月命日である二十五日の真夜中、璃凛(リリン)金亀(コンキ)楼の広い中庭で《散華》を打つ。なぜなら、これが身一つで故郷を飛び出した自分に出来る唯一の供養だからだ。  明日に新月を控えた月は空にない。今は乾季の終わり、新緑が芽吹いた木々が夜風にそよぐ。中庭をぐるりと囲む飾り窓から漏れた灯明が地上へと伸びて、璃凜の足元に淡い影をつくった。  客の笑い声、娼妓たちの嬌声、鳴らされる楽器の調べ、歌われる唄。それらの喧騒は璃凛の耳には届かない。まるで振った剣から生まれた波が、全ての音を打ち消してしまうように。  一度璃凛の套路を見た客がこう言ったという。あれこそ剣だと。  それでも。  あのときの母が見せた剣技には未だはるか及ばない。  あの晩、母の剣をすべり落ちて散った輝く玻璃(はり)の粉のようなもの。それが《(けい)》なるものだと知ったのは、剣を習うようになってしばらくたってからのことだ。  ――わたしにもできるようになりますか?  そう訊ねた璃凜に母は黙って頷いた。  あれからおよそ十年。達人と呼ばれるものの剣技を多く見てきたが、あのような勁の発動を目の当たりにしたことはない。  母は強かったのだ。おそらく、途轍もないほどに。  それなのに。  それほど強かった母がなぜ《囲われもの》などになったのか。なぜ生きる意志を失ったのか。なぜ左腕を失ってしまったのか。  全てをのみこみ、母はあの世へと逝ってしまった。  金亀楼の広い中庭のどまんなかに、楼主自慢の大きな噴水がある。  西国羅典(ラテン)の技術者を呼び寄せて作ったというそれは、夜中でも水を途切れさせることがない。惜しみなく吹き出す奔流を絶え間なく水盤へと落とし、今も飛沫を灯光(とうこう)にきらめかせていた。  燕子抄水の型は、ツバメが水面を低く飛ぶがごとく。  剣を地すれすれのところで一閃し、そこから旋転、璃凜の足が地上を蹴った。そのまま剣を大きく横へと薙ぎ払い、型を外れた剣先がその水流を裂いて玉となった滴をすべらせる。  刹那。奇妙に引き延ばされた時間のなかで、滴はぼんやりと幽かな光を帯びたかに見えた。  だがそれは束の間のこと。  輝きを失った水滴は地に落ちて、璃凛の足元を濡らしただけである。  落胆の息を吐いて柄を握り直し、滴のすべり落ちる抜き身を眺めた。  白刃に刻まれるのは七つの星、北斗。  柄は粗末な木の造りなのに、剣身には意匠を凝らした星の刻印が龍とともに描かれている。  母、藍那(アイナ)が残した唯一の形見。剣の名を天星羅(アストラ)。  言葉は残さず、ひと振りの剣だけを残した。  それを璃凛はいかにも母らしいと思うのである。
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