第一章・紫園

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第一章・紫園

 色街の朝は遅い。  とは言ってもそれは夜更かしを楽しんだ娼妓と客たちの話だ。下働きの者たちはまだ暗いうちから起き、水汲みと火起こしに始まって、掃除やら朝餉の支度に忙しい。  藍那(アイナ)はたいてい、下女の由真(ユマ)が廊下を拭くせわしない足音で目が覚めるのが常だった。なにしろ由真ときたら、バタバタと板を踏み抜きそうな勢いで床を蹴るのだ。  この帝都で贅をこらした建物がそうであるように、この金亀(コンキ)楼も外壁は土地の石灰石、内装は高級材木である卡迪沙杉(カディーシャ)を使っている。  南に広がる滑石海(マルマラ)。その向こうの地、嘉南(カナン)州より運ばせた木材は有り余る富の証しだ。色の違う板を組み合わせた寄木細工(タラセア)の廊下は格式の高さをものがたり、それをつややかに清めるのは、下働きの者たちの大切な勤めであった。 「おはよう、今日も元気ね」  扉を開け、眠い目をこすった藍那に 「おはようございます、先生!」  と由真が元気いっぱいの声をかける。その朗らかさはまるで生まれたての小スズメだ。幼いころに奉公に出され、まだ十二歳。それでも苦労を苦労とも思わない性質なのか、明るくひねたところがないのがいい。  用心棒を先生と呼ぶのは習わしのようなものだが、藍那は由真に字や読み書きを教えているので、学業の先生でもある。 「顔を洗って来て下さいね。これから朝ご飯を用意しますから」  毎朝交わされる挨拶を、由真は律儀に繰り返す。あくびで返事をし、夜着のまま履物をひっかけて水場へ向かった。  金亀楼には立派な共同浴室があり、格上の娼妓はそこで湯あみして身を清める。もう少し下の娼妓なら部屋でたらいに張った湯を使う。  用心棒の藍那も湯を使うことを許されているのだが、面倒でいつも裏の水場ですませてしまう。化粧をするわけでもないし、顔などさっと洗っておしまいだ。  水場は娼館の裏手にある。近くの扉から外へ出るとまぶしい木漏れ陽に目をすがめた。夜中に雨が降ったらしく、地面がまだ濡れている。今は雨季、この帝都で最も雨が多い季節だが、風が涼しく過ごしやすい。  乾季に芽吹いた木々にとって、雨季に降る雨はまさに天の恵みだ。一日に数回雨が降るごとに、緑は目に見えて濃くなっていく。街中に清々しい風が通り抜けるこの時期が過ぎれば、暑さの厳しい暑季が待っていた。 「よし、今日も頑張るか」    そう言って伸びをし、水場へと足を向ける。中庭の大噴水同様、ここも常時水が流れており、獅子の口が惜しみない水流を吐き出していた。水は吹き出し口から近い順番に、水飲み、洗顔、洗濯に使われている。    この時間には珍しく先客がいた。ざばざばと水しぶきを上げて顔を洗っているのだが、身体つきから察するにまだ若い男らしい。  一目で下働きのものと分かる簡素な服を着ていたが、袖から伸びた腕はそれほど陽に焼けていない。藍那の視線を感じたのか、こちらを向いた顔と目があった。  赤味を帯びた栗色の髪だった。歳のころは同じくらいか。滴が流れ落ちる端正な顔立ち、涼しげな双眸は戸惑うように藍那を見つめている。  その目の色にはっと息をのんだ。さまざまな国や大陸のものが行き交う帝都のこと、青や緑など、それほど珍しいとは言えない。だが紫色の瞳など初めて見た。    大きな娼館だから働く男衆も多いが、そのほとんどの顔を藍那は見知っている。おそらく今朝から働き始めた新入りだろう。だから 「おはよう。あなた、新しくここに来た人?」  とにこやかに声をかけた。  しかし掛けられた方はとたんに脅えた表情になる。びくりと身体を震わせ、濡れた顔もそのままに、脱兎のごとく走り去っていった。  あとには地べたに手ぬぐいが一枚。わけのわからない藍那は釈然としない気分でそれを拾った。見ると向こうの景色が透けるくらいにくたびれて、ぼろ布といっても語弊(ごへい)がない。 「わたし、そんなに怖い顔してたのかな」  あまりと言えばあまりの脅えよう。  いったい自分のなにが彼をそこまで怖がらせてしまったのか。考えてもさっぱり分からない。見ず知らずの他人にあのように怯えられるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。    ――いいですか、お嬢さま。身だしなみというものはご自分のためだけではなく、人のためでもあるのです。  ふと、ばあやの口癖が耳元で甦る。顔を洗い、手ぬぐいで滴を拭いながらため息をついた。  そういえば最近ろくに鏡で顔を見ることもない。男勝りな稼業で色気がないのは仕方ないが、少しは身だしなみに気を遣った方が良いのだろうか。  そう案じた末、朝餉の膳を運んできた由真へ真っ先に訊ねた。 「あのね、誰かに頼んで、鏡を貸してもらってきてくれない?」
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