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由真はそれを聞くなり、取り落としそうになった膳を床に置いて
「どうしたのですか、先生? もしかしてお腹でも痛いのですか?」
とおそるおそる顔をのぞき込む。
無理もない。藍那ときたら顔は洗いっぱなしで剃刀を当てたこともなく、髪なども結わずに背中で一つに束ねただけ。鏡などせいぜい半月に一度見ればいい方だ。
藍那は苦笑し、水場であったことを話した。男が怯えて走り去ったことを聞くと由真は盛大に吹き出す。ひとしきり笑ってから
「それたぶん、紫園さんだと思います。あの人、誰にもそうなんですよ。亜慈さんなんて『借りてきた猫どころじゃねえ、まんず拾ってきた野良猫だ』なんて言ってますし。あの人、口がきけないみたいで、誰ともしゃべらないんですよね」
と言った。亜慈は楼の賄い方を勤めている。厳つい顔に似合わず面倒見が良い男なのだが、やはり藍那と同じような目に遭ったらしい。
「ふうん、いつここに来たの」
「昨日からですよ。ほら丹義さんが腰痛でとうとうやめちゃったでしょ。人手が足りないからって、代わりの人をずっと探してたらしいんですけど」
「でも、あんなんで役に立つのかしら」
「水汲みとか掃除に厠のことなら、べつにしゃべれなくてもいいですから。でも意外ですね。先生が男の人のことを気にするなんて」
「べ、べつに、そういうわけじゃないけど」
くすくすと笑う由真に藍那は口を尖らせた。
娼館という男女の営みを生計とする場にありながら、藍那はそれについてはとことん初心ときている。
もちろん知識だけはあるが完全な耳年増であり、この歳まで男と同衾どころか手すらつないだことがないのだ。なにしろ男よりも剣の柄になじんでしまった手だ。すっかり皮が厚くかたくなってしまい、女らしさとは程遠い。
朝餉をすませてから、いつものように二刻ばかり由真の勉強をみてやる。
由真は賢い娘で、このような娼館の下働きをさせるにはもったいなかった。いずれ金を貯めたら、彼女を養女にして学校に入れてやれないかと考えているが、まだそれを口にしたことはない。
今日は書き取りで藍那が読み上げた文章を由真が書いていく。書き終わったと差し出した半紙に朱を入れて、採点と修正をしてやった。
採点の途中、由真が思い出したように
「あ、そういえば先生。愛紗さまが、私の勉強が終わったら部屋まで来てほしいと仰ってたのです」
「ああ、そうなの」
「明後日はいよいよお嫁入りですね。愛紗さまのお部屋は足の踏み場もないほど、贈り物でいっぱいですよ」
「そりゃそうよ。なにしろ、金亀楼の魁花が身請けされるんだからね」
魁花とは、娼妓のなかでも最高位を示す称号だ。
上は上﨟から、下は銅貨十枚の目堕落と呼ばれる茣蓙もち女郎まで。紅籠街には二百を下らない娼妓がいるとされる。魁花はなかでも別格とされ、今は金亀楼の愛紗と、玉蘭楼の紗羅の二人だけだ。
その愛紗が染物組合の長、慈衛堵の第二夫人となることがめでたく決まり、嫁入りを明後日に控えている。
「なんだか寂しくなりますね」
「ああ、そうだね」
藍那は由真とうなずき合った。
愛紗の身請けを惜しむ者は多く、藍那もその一人である。鷹揚な性質で、魁花という地位にありながら驕るところは少しもなく、そのために藍那とも気があった。まるで妹のように気にかけてくれ、なにかと部屋へ呼び出しては世間話の相手にする。
身請けされれば今までのように気軽に会うことも叶わないだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えてしまう。
由真が朱を入れられた半紙を手に部屋を出ていったあと、藍那は着古した木綿の単衣を脱ぎ、張りのある麻の単衣に袖を通した。男物の白袴はそのままに、縞の男帯を単衣の上から締める。
(鏡……か……)
ふと思い立ち、床に置いた剣を取り上げた。
剣首と剣格(※刀で言えば鍔にあたる)は真鍮、柄と鞘は木で作られたそれは、剣としては小ぶりな作りである。剣首と剣格に繊細な草木模様が装飾されているのも女性的で、はじめから女物として作られたようだ。
眼前にかざして、ゆっくりと鞘から抜いた。
まるで水鏡のような白刃が藍那の目元を映し出す。その剣身に刻まれているのは七つの星――北斗と、一匹の龍。
天星羅。それがこの剣の銘だ。
師であった母から譲り受けた両刃剣。母亡きあと、十四で故郷を飛び出してから幾度とない窮地を切り抜け、ともに戦ってきた。
隊商や大道一座の警護、酒家の用心棒。街から街を渡り歩き、ようやく帝都阿耶にたどり着いたのが一年半前のこと。
さてどうしようかという矢先に運良く金亀楼の用心棒に収まったが、最初の頃はやたらと喧嘩を売られたものだ。
剣客たちの世界は広いようで狭い。
紅籠街きっての上楼がまだ青臭さの抜けない小娘を雇ったとの評判は、瞬く間に広がっていた。それを聞いて面白くない連中が、やたらと藍那に絡んできたのである。
そんな輩をことごとく打ち返し、この帝都での戦績は七十二戦七十二勝。今ではその名を帝都にとどろかせ、金亀楼の藍那といえばちょっとした有名人だ。
歴戦をくぐり抜けてきた大切な相棒――その剣身に映った鳶色の瞳を藍那は見つめる。母は亜麻色の瞳であった。藍那はそれよりも茶が濃い。この色は父に似たのかと、幼い頃はときおりそんなことを考えたものだ。会ったこともない、顔も知らない父に――。
剣を鞘に収め、帯剣して部屋を出た。用心棒だけが楼内で帯剣を許され、非常時には抜くことを許される。
愛紗の部屋は三階の北、金亀楼で一番格上の場所にあった。足を踏み入れると、愛紗は嫁入り道具になかば埋もれるような格好で脇息にもたれている。
薄物の長単衣をゆったりとまとい、脇には孔雀の羽扇を使う侍女、上良を従えていた。雨季はまだ始まったばかりだというのに、今日は暑季を先取りしたかのように暑い。
藍那を見るなり優雅な笑みを浮かべ、愛紗が身体を起こした。
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