第一章・紫園

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「いらっしゃい、藍那。なにか飲む?」 「ではお茶を一杯いただきましょうか。今日は暑いですね」  愛紗の目配せで侍女の上良(カミラ)が手を止め、羽扇を置いた。立ち上がり茶道具がある卓へと向かう。 「今日、珍しいものが手に入ったのよ。今見せてあげるわ」    そう言って悪戯っぽく笑った愛紗は、懐から出した小扇子をゆったりと使いはじめた。間もなく、上良(カミラ)が硝子の小さな器を乗せた盆を手に戻ってくる。 「さあ、先生どうぞ」  愛紗の向かいに座した藍那に器を差し出した。  硝子の器には丸く白いものが盛られており、まるで白い粉をのりで固めたように見える。添えられた小さな銀の匙がうっすらと汗をかき、曇っていた。  怪訝な顔の藍那に、愛紗が笑って 「食べてみて」  言われるままに器を手に取った。ひんやりと冷たい。匙を手におそるおそるすくって口に入れる。冷たさを感じると同時に、乳と砂糖の甘さが舌から口全体へと広がった。それはまるで雪のようにはかなく、あっという間に溶けてしまう。 「これ、なんですか?」 「舎里八(シャルバート)っていうのよ。冷やした牛の乳と糖蜜を混ぜて練って作るのですって。どう、美味しいでしょ?」 「ははあ、でもよく溶けませんね」  「小さな氷室ごといただいたの。今日みたいな日にはぴったりよね」  ひとさじ、またひとさじ。口のなかで冷気が広がるたび、火照っていた身体が冷えていった。乳と糖蜜の甘さが喉を通り抜ける。とたんに頭の芯がつんと痛んで、思わず目を閉じた。そんな藍那を見て、愛紗は鈴が転がるような声を上げて笑う。 「あ、藍那もなったのね。上良もなったのよ、奥の方がねツーンって」  首の後ろをこぶしで叩き、藍那は空になった器を返した。慣れない冷たさで身体が一気に凍えてしまったような気がする。主人の悪戯心に苦笑いする上良に、温かい茶を一杯所望した。 「由真から聞いたわよ。鏡を借りたいなんて、珍しいことを言うものね」 「ずいぶんとお耳が速いですね。たまには自分の顔を見ませんと、どんな顔をしているのか忘れそうですから」  軽く首をすくめた藍那に愛紗は微笑んだ。 「上良、例のものを持って来てちょうだい」 「はい、愛紗さま」  空の器を下げた侍女が、かわりにたいそう手の込んだ細工ものの黒い木箱を抱えてきた。  藍那の前に置いてから、(うやうや)しくふたを開ける。素材はおそらく黒檀で、箱と側面に精緻な華羅(カラ)彫りの龍が彫られていた。なかは紫の布で覆われ、それを除けると銀の手鏡が現われる。 「これは?」  藍那は困惑した顔で鏡と愛紗を交互に見た。 「前から言ってたでしょう。いくら男勝りの稼業でも、身だしなみだけは忘れないでと」  手にした銀の手鏡はずいぶんと持ち重りがした。花綵(はなづな)模様を浮かせた背面のところどころに、赤や紫の宝石がはめ込まれている。  こういったものの価値の疎い藍那ですら、とんでもなく高価なものだとひと目で分かった。 「私からの贈り物よ。北の領主さまからいただいたものだけど、あなたにあげるわ」 「そんな。こんな高価なもの、いただけませんよ」 「いいのよ。これを見るたびに、藍那にいつでも私のことを思い出してほしいの」 「姐さん――」  返した鏡面で顔を映し見た。卓越した職人の手で磨かれたのだろう、静かな水面(みなも)のように滑らかなそれには少しの歪みもなく、少し陽に焼けた顔を映し出す。  化粧とは無縁の垢抜けないそれは、まるで薄汚れた鳩だった。  失望を隠すようにそそくさと木箱に戻す。これだから藍那は鏡が嫌いなのだ。 「本当に。そんなにきれいな顔をしているのにもったいないわ。ねえ、上良もそう思うでしょ?」 「ええ、愛紗さま。先生、髪をきちんと結わえて、もうすこしきれいな格好をすれば男たちがほっときませんよ」  そんな彼女たちの言葉に苦笑しながら蓋をしめる。  口うるさいのはなにもこの二人だけではない。最近は由真にまで  ――先生はもっとおきれいにすれば、綝娜(リンダ)さまや艶琉(アデル)さまにも負けないくらいだと思うのです。宝の持ちぐされという言葉をご存知でしょうか。  などと、こましゃくれたことを言われるようになってしまった。  藍那とてきれいな着物や装飾品に興味がないわけではない。母と暮らしていたときは、人並みの洒落っ気くらいはあったと思う。  ただこのような稼業をしていれば、女の部分はいやでもすり減っていく。血に汚れてしまうことを考えれば、どうしてもまとうのは粗末な木綿のものが多くなるし、化粧とて同じだ。  なにより女を売り物にした用心棒は、たいてい春を(ひさ)ぐことをもう一つの稼業にしている。武芸の腕など二の次で、(ねや)の技法にせっせと磨きをかける。  剣の腕一つでやってきた藍那には、そのような同業者とは一線を画したいという矜持があった。  それに。  女が着飾るのはやはり、それを見せる相手がいてこそだと思う。美しい花も愛でられればこそだ。そもそも藍那には着飾った自分を見せたいと思う相手がいないのだから。 「にしても。藍那が男性の目を気にするなんて、珍しいこともあるものね」
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