第一章・紫園

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大男が命じると、後の二人が距離を置く。首根っこをつかまれていた紫園は放り出され、それをすかさず男衆の一人が引きずって藍那の後ろへと動かした。  男が太刀を鞘から抜く。呉鉤剣(ウーゴウ)と呼ばれる刃先が膨らんだ東洋式の曲刀。大根みたいな太さの柄といい、牛を解体できそうな白刃といい、とうてい並みの男には扱えぬ代物で、この男の膂力(りょりょく)のすごさが分かる。  対する藍那の天星羅(アストラ)は剣としては小ぶりなつくりだ。こちらも鞘を抜き、天星羅の(つか)を逆手に持つ。鼻先まで近づけ、そろえた人差し指と中指――剣指を立てた左手をそっと添えた。合掌にも似た構えを、初めて見るものは必ず奇妙に思う。 「なんだその構えは。どこの大道芸だ」  せせら笑う男の構えは飛燕。深く腰を落とした構えは、たしかに重い太刀を使うに適している。構えに隙はない。おそらく腕には相当の自信があるのだろう。  熊のような剣客とまだ少女の面影を残す女用心棒。なにも知らぬものが対峙する二人を見たら、まるで大人と子どもの喧嘩である。  しばしの静寂。咳払いひとつ聞こえない。  そして一閃。  先に仕掛けたのは男の方だ。  巨躯に似合わぬすばやさで薙ぎ払った太刀筋が藍那の腰をかすめる。続けて返す刀で繰り出された突きを紙一重でかわし、剣指を突き出して抜け目なく距離をとった。  たしかに強い。素早さもある。しかし己の腕力に頼りすぎて動きに無駄が多い。なまじ力に自信があるだけに、すべてを力押しで通そうとするのだ。そして、こういう手合いが藍那にとっては一番やりやすい相手でもある。  二閃、三閃と続いた袈裟がけの太刀筋をかわし、藍那がようやく柄を握り直した。  逆手から順手へ。  踏みこみと同時に大きく弧を描いた下段の横払いを男の剣が受ける。しかし大振りがよくなかったのか、藍那の身体がとたんにぐらりと揺れ均衡をくずした――と誰の目にもそう映ったに違いない。  それを見逃さず、男の白刃が藍那めがけて鋭い突きを。    巧みな陽動――男がそれに気づいた時にはもう遅かった。  くるり。  藍那が軽く手首をひねると天星羅が太刀を巻き込みながら回転する。それだけで剣筋の威力を渦に殺されたばかりか、そのまま刀を弾く力へと転じられた。 「――!?」  呉鉤剣(ウーゴウ)が弾かれ、柄を握った太腕が外側へと大きく開いて隙をつくる。すかさず宙を飛んだ藍那が男の懐深く入り込んだ。  驚愕と疑念に男は目をむく。明らかに剣をふるうには間合いが近すぎる。  一瞬で藍那は宙を蹴った勁力を腰から腕へとつなげた。  徒手でいえば弧拳の応用。軸の回転と同時に横から正面へ。握った柄が目にも止まらぬ速さで男のこめかみを打ち抜く。  ごすん。  剣首が鈍い音をたてた。  白目をむいた男の躯がぐらりと(かし)いで、石敷きの地面に崩れおちる。柄を握り締めたままの腕は硬直し、あんぐりと開かれた口からよだれが流れでた。 「おおおぉ――――っ!」  藍那の背後にいた男衆たちが歓声を上げる。対照的に地を這った仲間の信じられない体たらくに、二人の男が青ざめた。藍那と仲間を交互に見ては、金魚みたいに口をぱくぱくと開いて閉じる。どうやら驚きのあまり声も出ないらしい。 「水!」  剣を鞘に収めた藍那がひと言命じた。間をおかずに男衆の一人が、桶一杯に汲んだ水をのびた男に威勢よく浴びせる。 「ぶへえくしょっ!」  大きなくしゃみとともに目を覚ました男を、縄を手にした男衆たちが縛り上げ始めた。他の二人も棒きれを手にした男衆に退路を断たれ、塩をふられた青菜よろしくしょんぼりと肩を落とす。あとは食い逃げとして役人に引き渡すだけだ。  もっとも払う金がないのではどうしようもない。結局はこの楼で働いて、身体で払ってもらうしかないだろう。  やれやれと藍那はこの騒ぎの張本人を探した。  男衆に地べたを引きずられていた紫園。いったいこの騒ぎの発端はなんなのかを彼から聞かなければ――と、たしか彼は口がきけなかったのだ。ならば……。  そこまで考えて、先ほどまで居たはずの紫園が見当たらないことに気がついた。さっき彼を引きずっていた男衆は巨漢を縛り上げるのに夢中で、とうに紫園のことなど頭から抜けている。  ふと――。  背後。  振り向きざま、鞘におさめた剣尖をそのものへと突きだした。  背に感じたただならぬ《なにか》の気配。  その何かは喉元に突き立てられた剣尖にまるで気がついていないのか、ぼんやりと藍那の前で立ち尽くしている。 「あ、あなた!?」
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