第一章・紫園

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 藍那の眼前に、呆然と目を見開き、立ち尽くす紫園の姿があった。 (この男、いつの間に私の背後に?)  唇をぶるぶると震わせ、紫園が声を振り絞る。 「ぅあ……つ、つ、つ……」 「あなた、話せるの?」  藍那の問いかけには答えず、紫園はふらふらと歩きだした。  先刻までのただならぬ気配は消え、まるで泥酔したようなおぼつかない足取りで一歩、また一歩とよろめく。そして突如がくりと膝から崩れ落ち、四つん這いになったかと思うと、ゆっくりと顔を上げた。  まるで熱に浮かされたような、どこか狂気の光りを宿した眼差しで 「つ、つる……ぎ……」  そう口ばしり、這いつくばりながら、藍那の足首を意外な強さでつかむ。 「あ……ああ……」  うめきながら、もう片方の手を天星羅(アストラ)へと。  ふいに奇妙な力がその手から放たれ、天星羅を引き寄せるのを藍那は感じた。いや天星羅が自らその手を引き寄せたというべきか。抗う隙もなく、気づけば鞘ごとしっかりと彼の手に握られていた。 「つるぎ……つる……」 「つるぎって、この剣がどうかしたの?」  藍那が尋ねると、握った鞘がするりと抜ける。露わになった白刃にいっそう見開いた目を寄せ、指先を七星の刻印に触れんばかりに、紫園は苦しげに口を開いた。 「……ぁ……、あ……あす……と……ら……」  なぜこの男がその名を知っている? 母と自分しか知らぬはずのこの剣の銘を。  藍那が伸ばした手が紫園の襟元をつかんだ。  お前はいったい何者だ――そう尋ねようと覗きこんだ瞳は紫色。  藍那の生まれた地方では、紫の瞳は、神の目だと言われていた。光りの角度によって深い青を孕むその色合いは神秘的で、まさにこの世ならざる者の目だ。  まるでこちらの心を見透かされているような気になり、少しひるみつつも藍那は口を開いた。 「お前は、いったい……」 「せんせいっ!」  背後で柴門(シモン)の声がしたかと思うと、彼の太い腕が藍那から紫園を引きはがしていた。 「こいつっ、ふてえ野郎だ! 先生のお腰のものに気安く近寄りやがって!」  お腰のものとはまたたいそう古風な言い方だが、なぜか柴門はこういう表現を好む。そして体格のいい柴門に引きはがされたとたん手足を丸めて、顔を覆う紫園の姿はどこをどう見てもいじめられっ子そのものだ。  哀れというよりほかない様子に、さきほど感じた奇妙な得体のしれぬ気配は、単なる思い過ごしだったのではないかとまで思ってしまう。 「いいのよ、柴門。それよりこの騒ぎは――」 「その件で旦那さまがお呼びでございますよ」 「分かった。行こう」  振り向き、肩ごしに紫園を見下ろすと目があった。何かを訴えるような視線を振り払い、歩きだす。裏口から屋内へと入り、一階にある杷萬(ハマン)の書斎へとおもむいた。  卓上の水煙管をのんびりと吸っていた楼主は藍那を一瞥し、向かいの椅子を指さす。 「まったくどうもこうも、武人たるものが嘆かわしいものです」  水煙管の吸い口から薄荷の匂いのする息をさせ、杷萬は苦々しく嘆いてみせる。 「どうもやり方が手慣れてます。おそらく田舎ではあのように威張り散らし、強さをかさに遊び代を踏み倒していたのでしょうな。しかし、この帝のお膝元で同じ手が使えると思ったら大間違いですよ」 「彼らをこれからどうなさるおつもりですか」 「役人に突き出すことも出来ますが、それではこちらの損になる。しばらくはただ働きさせて、きっちりと身体で払ってもらいますよ」 「訛りから、どうやら北から来たようですね」 「最近どうもああいった手合いが多いですよ。ちっとばかり腕に覚えのある田舎武芸者が、一旗揚げようと帝都に押しかけてくる。どこぞの武芸道場の師範代にでも収まってくれりゃまだましなんですがね。結局食い詰めて、ヤクザの用心棒が関の山でさ」    藍那は苦笑した。自分も田舎からこの帝都に流れてきた武芸者の一人である。もし縁あってこの金亀楼に雇われていなければ、どうなっていたのかさっぱり分からぬ。  扉を開けて秧真(ナエマ)が入ってくる。盆にのせた茶道具を手に 「先生、相変わらず見事なお手並みでしたね」  と目を輝かせて称賛した。
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