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偲ぶ娘(1)
昭和三十九年の九月、私、右原桜は実家の書斎でそれを発見した。
その原稿用紙に記された『八兵衛の菊』は父、右原修次の遺作であった。
私は読む手をいったん止めて深いため息をついた。
この『八兵衛の菊』は小説で一財産を築いた男が遺した時代小説としてはあまりに凡百であった。
一月前に亡くなった父の書斎をようやく整理している間に見つかった遺稿。
初めはお世話になった出版社の方に渡そうと喜んで手にしたそれを、私は一刻も早く燃やしてしまいたい気持ちでいっぱいだった。
おそらく推敲も何もされていないのだろうただ思い付くままに書き殴られた『八兵衛の菊』。
その筆致はもちろんのこと、あらすじにもなんら尖ったところがなかった。
そもそもこれはもはや時代小説でもなんでもない。
そういう体をしているだけだ。
これはただの私小説だった。
これは父と母の話である。私には一読しただけでそれが分かってしまった。
私の母、右原八重が死んだのは昭和二十年の八月のことだった。
それは私がまだ八つの時だった。
私たち一家は谷中にある我が家から、父の実家に疎開していた。
父は体が弱く徴兵検査を通らなかった。今にして思えば幸いなことであったが、当時の風当たりは強かった。
そうでなくとも父は実家の農業を継がずに東京へ出ていた。文筆家として名を上げると豪語し田舎から飛び出した親不孝ものだった。
そういうわけだから父の代わりに家を継いだ伯母一家の父への態度は冷淡だった。
しかし母と幼い私への態度は柔らかなものだった。
それを私は今では感謝している。
父は体が弱く、田舎に戻っても伏せって物書きをしていることが多かった。
代わりに田畑で汗を流していたのは母だった。
東京のお嬢様育ちの母にはそのどれもが新鮮な物だったようだ。
母は女学校でスポーツをやっていたこともあり、体力には恵まれていた。
幼かった私も私なりに田畑を手伝ったことを覚えている。
振り返ってみればそれはおままごとに近しい児戯であった。
それも今となってはただの懐かしい想い出である。
そんな母が亡くなったのは突然のことだった。
暑い日だった。
急に倒れて、医者を呼ぶ間もなく息を引き取った。
父はたいそう嘆いた。
先に死ぬのは己れだと思っていた。何度も何度も繰り返してそう言っていた。
戦時中のことである。あまりに慎ましく母の葬儀は執り行われた。
その数日後に、そのラジオ放送はあった。
ラジオから流れる声に、伯母一家はぽかんとしていた。
ただひとり珍しくねぐらから這い出てきた父だけがその言葉のすべてを理解し、深いため息をついていたことを私は覚えている。
私はラジオの内容をほとんど覚えていなかった。
ただ父のため息だけが耳に残っていた。
その後しばらくしてから私たちは焼かれずに済んだ東京の家へと戻った。
そこに母は居なかった。
八つというのはとても子供だった。
私は常にしくしくと泣いていた。
住み慣れた家に母が居ないことが寂しく辛かった。
母と暮らしていた屋敷に、父は人を雇った。
そこは物語の中の八兵衛とは違っていた。
今思えば、人を雇ったのは私のためだったのだろう。
『八兵衛の菊』を読んで、私はようやくそれに気付いた。
父はひとりで住んでいるのなら人など雇いたくはなかっただろう。
母の居ない家に母以外の手が入るなど、受け入れがたかっただろう。
そういったことに今になって私は気付かされてしまった。
仕事に没頭する父の代わりに、私はその人たちに育ててもらった。
皆とてもいい人たちだった。
私が成人する頃には私も家のことはあらかた自分で出来るようになり、彼らは我が家を辞していったが、一部の人たちとは今でも文のやり取りをしている。
父も手紙のやり取りをしていたはずだ。
書斎を探せばあるだろうか、私はいったん『八兵衛の菊』の原稿用紙を置いた。
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