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八兵衛の菊より(1)
とある将軍様の頃、江戸の武家町の外れにある古びた屋敷で、とある男やもめが、端女も置かずに、一人で暮らしておりました。
この男、人柄はよく、義侠心が強く、志の気持ちいい男であると周囲からも評判のよい武士でありました。しかし訳あって、宮仕えを辞し、まだ三十路の手前という若さであるにも関わらず、庭の花を愛でたり、経を写したり、読み込んだ書物を繰り返し眺めたりと、まるで余生のような暮らしぶりを送っておりました。
この男の名は八兵衛と言いました。
このように寂寞とした暮らしを送る八兵衛にも、かつては妻がありました。妻の名はお菊。八兵衛がまだ宮仕えをしていた頃の同僚の妹で、八兵衛とは年が二つか三つ離れていました。縁あって結ばれた二人は、たいそう仲睦まじく過ごしておりました。
しかしある大雪の年、お菊は病に倒れ、帰らぬ人となりました。
お菊の喪が明けて後、八兵衛はお上に辞意を伝えました。引き留めようとする者もいましたが、その誰に対しても八兵衛は静かに首を横に振るばかりでした。そればかりか屋敷に幾人かいた使用人たちも新たな雇い先を世話してやり、屋敷から誰も彼も追い出してしまいました。
八兵衛のその心内は誰にも分かりません。
それ以来、八兵衛はお役目を辞し、このような暮らしを送っているのでした。
それから八兵衛の隠居暮らしが始まりました。
最初の数ヵ月、八兵衛は屋敷の修繕に力を尽くしました。生前のお菊が躓いていたのを思い出しては庭の石を退かし、すきま風の音を気にしていたのを思い出しては板に釘を打ち、枯れたことを嘆いていたのを思い出しては新しい花を植えました。
そのほとんどにおいて八兵衛は人の手を借りることをしませんでした。何かにじっと耐えるかのように黙して八兵衛はひとりで屋敷のあれこれを行っているのでした。
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