episode 29

1/1
前へ
/37ページ
次へ

episode 29

術後の経過は順調で、思ったよりも早く退院できた。 後遺症もなく記憶もしっかりしている。 退院の手続きを済ませて理人と一緒に外に出ると、私服姿の馨がいた。 「リュウ君、退院おめでとう!」 龍也の入院中、馨は頻繁にお見舞いに来てくれていた。 帰宅途中の事故である事を気に病み、何度もごめんなさいと謝られてしまった。 理人もお見舞いに来てくれたが、なんだかずっと寂しそうな顔をしていた気がする。 「ママ、ありがとう!2、3日お店は休むけど、またしっかり働くから!」 元気よくそう言ったが、馨が困った顔をする。 「あー、その事なんだけど。しばらくお店休んだほうがいいんじゃない?」 病み上がりだということもあるが、やはり帰宅時間が気になるらしい。 重ねて理人も言う。 「知り合いのお店で働いているのは安心だけど、夕方くらいに終わるような仕事を探してみない?」 心配してくれるのはありがたいが、ママもお客さんも好きだし、理人もお店に来てくれるからバイトは続けたかった。 「まぁ、ゆっくり考えましょう」 そう言って少し話したあとママとは病院で別れ、理人の運転で自宅に戻った。 理人が自宅に入るのは初めての事だった。 「理人さん家と違ってかなり狭いけど・・・上がってください」 一人暮らしに狭い部屋に理人を上げることは恥ずかしいが、今更どうすることもできない。 入院していた際の荷物を片し、コーヒーを入れようと立ちかけると手を引かれた。 「いいよ、龍也。・・・おいで」 そう言って抱き寄せられる。 優しく抱きしめてそっと額にキスをする。 「本当に無事でよかった」 理人は何度もそう口にした。 「もう大丈夫です。心配かけてごめんなさい」 そう言って抱きしめる腕に力を込める。 顔を上げると悲しそうに笑う理人と目が合う。 (まただ) 入院中からずっと理人はこの目をしている。 悲しそうな、寂しそうな。 この目を向けられるとなぜだか不安になる。 「理人さん・・・」 キスが欲しくて名前を呼んでも、欲しいところにキスをくれない。 唇にキスをしてくれなくなった。 どうしてだろう、と今日は問う。 「龍也はまだ病み上がりだからね。抑えられなくなるから我慢」 そう言って龍也の唇を指でなぞると理人は立ち上った。 「今日はもう帰るから、龍也はゆっくり休んで」 もう帰ってしまうのか、と寂しく思ったが仕方ない。 忙しいはずの理人は入院中ほぼ毎日見舞いに来てくれていた。 (俺のところに来るために、時間作ってきてくれたんだもんね。俺も我慢しなきゃ) 本当は押し倒してほしいくらいだが、我慢する。 「じゃあまた連絡するから」 そう言って軽く抱きしめ理人は帰っていった。 理人が部屋にいた時間はほんの少しだけれど、部屋にはまだ理人の優しいにおいがする。 (完全に治ったら、またたくさんキスしてくれるよね。また優しい笑顔が見れるよね) そう期待しながら眠りについた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

200人が本棚に入れています
本棚に追加