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スカートを履いた日2
くたびれたスーツを来た痩せたおじさんが店の中に入ってくる。
「あーら野木さんじゃない、いらっしゃい。そこのソファーに掛けて」
「うん」
茂美に促され、野木とよばれた中年の男性はソファーに腰かけた。茂美もとなりに座る。
古賀が、慣れた手つきでふたりにロックグラスを差し出した。どうやら、ここの常連さんらしい。
「……死にたい」
注がれたお酒をあおったあと、おもむろに野木さんが口を開いた。
「やーだもー! またいきなりそんなこと言ってー。んもう、どしたのどしたのー?」
「仕事がきつすぎる。いわゆるブラック企業ってやつでさ、会社が終わるのはいつも終電後で、もう十日も家に帰れてない。まるで奴隷だよ。このまま仕事に殺されるくらいなら、せめて自分で死に方を選びたいんだ」
「やだぁ、ひどい話ねぇ」
大げさにため息をついた茂美が、ポンと一度手を打ち鳴らした。
「うん、いいこと思いついたわ。野木さん、そんな会社やめちゃいなさい」
「そんな簡単に言われても。だって会社やめたらどうやって生きていけばんだい、ママ?」
「さあね。でも、どう死ぬかを選ぶより、どう生きるか選ぶ道のほうがずっと素敵でしょ? だから、どうしようもなくなったら、会社をやめな。人生やめちゃ、ダメだよ」
「ママ……」
ふたりは静かに言葉を交わしていく。
茂美のとなりで、野木さんは子供のように何度も頷いている。
死にたい、生きたい。それは酔いの中で交わされる、戯言なのかもしれない。
それでも、茂美の言葉は温かかった。野木さんの目の中には、少しだけ柔らかな光が宿り始めていた。
「茂美は悲しい目を、変えられる……」
野木さんが、茂美の腕につかまって大きな声で泣きだした。
その肩に、古賀がそっとブランケットをかけた。茂美は何度も頷きながら、子供を励ますように優しく頭を撫でていた。
同じ夜の世界なのに、俺が勤めていたホストクラブとはぜんぜん違う。この店のなかには、あったかいような少しくすぐったいような、奇妙な優しさがある。そんな気がした。
スカートの下の足は、相変わらずスースーと寒い。
それでも俺の胸の奥には、さっきよりも温かい風が吹き始めていた。
「ううっ……」
「よ~しよし、こんなに頑張っちゃって。良い子良い子」
泣きじゃくる野木さんを、茂美は優しく抱きしめる。
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