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婚前挨拶
「お父さん、娘さんを僕にください!」
ついに言われるときが来た。というよりも、来てしまったと言うべきか。
目の前で頭を下げているスーツの青年は、隣に座る娘のふたつ年上の三十路。黒々とした短髪を、整髪料で固めた頭頂部が見える。
今日が初対面で、母さん――妻――づてに話は聞いていた。「とてもいい人ですよ」との太鼓判がすでに押され、果たして俺も押すに至った。
話をしていても、とても常識的な人間であるし、礼儀なんかも親御さんのしつけがよかったのだろう。もっともあっちからすれば、俺のほうが常識がないと思われたかもしれんが。
くださいと言われて断る理由などない。
娘はアラサーと呼ばれる年代。浮いた話ひとつもなく、そろそろ見合い話を親戚に頼もうかと思っていたほどだ。
しっかりとした性格で、気立てもいい。社会人になってからは迷惑をかけられた記憶もない。
誕生日や記念日には、俺や母さんに贈り物も欠かしたことがない。きっと、向こうのご両親とうまくやっていけるだろう。
……親の欲目は百も承知だ。まあ、それだけ俺の娘にしては良い子で、まっすぐ育ってくれたことがただただ嬉しい。
「お父さん!」
母さんと娘の眼が三角になっている。まずい、つい感慨にふけってしまった。
「すまんすまん。もちろん、いいですとも。深津(ふかつ)くん。ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いします」
「ありがとうございます!」
深津くんは、一旦下げた頭を今度は畳にぶつけんばかりに下げる。……俺も母さんをもらうとき、一生懸命頭を下げたっけな。
「それと……その……」
急に歯切れが悪くなる深津くん。少しもじもじしていたが、娘に太ももをつねられたらしく、一度体を跳ねさせてから力強く言ってきた。
「僕を婿にしてください!」
「な、なんだと……!?」
深津くんをまじまじと見つめる。真剣過ぎる表情だ。とても冗談に思えない。
「後継者だよ。父さんも今年古希(こき)――70歳――でしょ? 幸大(ゆきひろ)くんも研磨仕事に興味を持ってるし」
娘が理由を補足してくれる。今のところ俺の中でありがたい気持ちと、余計なことしてくれたなという気持ちがせめぎ合っている。
「婿というから深津くんは次男か三男なのかな?」
「僕は三男なので、特に問題はありません!」
「仕事は何をしているんだ? どうするんだ?」
「営業です! 辞めます!」
「待て待て待て待て。深津くん、冷静になってくれ。急に辞めるだなんて、会社に迷惑がかかるんじゃないか」
「大丈夫です! すでに引継ぎは終えましたから」
てっきり同業者か最低でも工場勤め思ったんだが……営業か。飲食から来た奴もいたが、あいつはコックをやっていたから手先は器用だ。
介護から来た奴も、施設でレクや行事で使う色んなもんを作らされたから、不器用なほうでもない。
そうなると、深津くんはどうなんだろう。営業は手より口のイメージのほうが強いからなあ。
「月曜日からお世話になります!」
隣の母さんをニラむ。道理で予備の作業着とかこつけて、発注していたわけだ。まだまだ予備はたくさんあるというのに。そういうことだったのか。
まったく、母娘(おやこ)というのは、旦那――父親――の知らんところで色々動いているもんだ。
「深津くん。何がここまで君を動かすんだ」
「お父さん――いえ、押見(おしみ)さんが研磨しているタンブラーが、大好きだからです!」
そんなことか――と言おうとしたが、やめた。お世辞で言っている表情と声じゃない。真面目でまっすぐな言葉だ。
「仕事が終わって一杯飲むんですが、タンブラーにビールを注ぐときめ細かい泡立ちで、すごくおいしいんです! なので僕も、こちらで研磨の技術を学んで、品質の良いタンブラーを世の中に出していきたいと思いました!」
熱意とやる気と若さがあればどうとでもなるか。俺も若いころは不器用で、散々失敗して不良の山を作ってきたもんだ。先輩や社長に散々どやされて、何度も逃げ出したくなった。それでも歯を食いしばって耐えて、こんな奴でも起業して、努力と経験を積んで人様に一目を置かれるようになった。
いくら深津くんが壊滅的に不器用だとしても、根気強く教えていこう。うちに婿に入ろうとするのも何か縁だ。やる気のある若者を無下するなんて、罰が当たるわな。
「わかった。そこまで言うなら、幸大くん。今からは息子として、月曜日から押見研磨の一員としてよろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします!」
娘と母さんが手を叩いて喜び、台所へ料理や酒を取りに出て行った。
「いいか幸大くん。こうマイナスのことを言うのもなんだが、つらくなったら泣いてもいいし、弱音を吐いてもいい。ただし、逃げずに諦めないことが肝心要(かんじんかなめ)だ」
「はい!」
「君を跡取りかどうかは、今は正直よくわからない。急に指名したところで、元から働いている社員はどう思うかもわからない。いっしょに働いて、働きぶりがみんなに認められたらそのときだろう」
「はい、一生懸命がんばっていきます!」
「君のことをよく知りたい。酒を飲み交わして語り明かすぞ」
「ごちそうさまです! 僕もお父さんのことを知りたいので、たくさん飲まさせていただきます!」
ビールで乾杯して喉に流し込む。もちろん、使っているのは自分で研磨した製品ながら、最高の出来栄えと信じて疑わないほどのタンブラー。それを片手に、繋いでくれた縁に感謝し、様々な喜びを噛みしめたのだった。
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