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私は野球馬鹿、名はあるが言わない。
ただの一般的な高校球児である、とだけ示しておこう。
さて、馬鹿と一言に申しても、その種類は千差万別。ただの能無しと思われては心外である。
私の馬鹿は野球馬鹿、人生を野球に賭した誇るべき馬鹿なのだ。
そしてまさに今、私の名前が球場のスクリーンに堂々映し出された。
9番の所に小さく収まっているのがここからでもよく見える。
それに伴い、何か爆発したのかと間違う程の大歓声がアルプスから上がった。吹奏楽の喧しいまでの演奏が始まり、相手らの野太い威嚇が私の聴覚を埋めた。
9回、アウトカウントは2つ。
ランナーは満塁、3点ビハインド。
野球人、更に言うなれば野球馬鹿にとって、この燃えざるを得ない展開に私は魂を震わせている。
ベンチを振り返りサインを確認するが、監督はとうに試合の行方をこの私に委ねている。
何のサインも出さず、ただ「任せた」と言わんばかりに深く頷いた監督に、「もちろん」と目で応え、私はルーティンである打席入り前の素振りを始めた。
真夏の太陽は私を容赦なく照りつけ、瞬く間に私の額や頬は汗に埋め尽くされた。些かその汗がひんやりと冷たく感じるのは緊張のせいだろうか。
そして主審に礼をし、この日初の打席にゆっくりと入った。
塁も埋まり、遂に腹を括ったのか、相手投手もこれまたゆっくりと投球動作に入る。
この時既に私の感覚は僅か一点に絞られ、ほんの小さな白球にのみ全霊が注がれていた。さぁ、球が来るぞ。
主審の手が上がる。ストライクだ。
私は一度深呼吸をし、心を落ち着けにかかった。心の臓に手を当ててみれば驚く程の速さで波打っているではないか。
外角いっぱいの直球。ここまで1人で投げ抜いている投手の球とは思えない迫力と精密さであった。
私が再び構えたのを確認してから投手はセットポジションに入った。
脳裏に先程の球が過ぎる。あの力強さだ。あれこそが投手を投手たらしめる意義であり、彼の背負う背番号「1」を燦然と輝かすのだ。
かく言う私の背番号は「18」、ベンチに入れるギリギリの数字である。しかし私はこの番号を恥じたり、悔いたりは決してしない。誇りに思っている。
何故ならば、共に戦う18の魂が私の背に宿っているからだ。
さぁ、球が来るぞ
バットを振り抜く、手応えがあった。
しかし打ち上がった打球はみるみる後ろへ逸れ、ネット裏に吸い込まれていってしまった。ファウルだ。
ストライクカウントに2つ目のランプが点る。
さぁ、いよいよ後が無くなった。
ここからボール3つ、いや4つ見る胆力は私には無いし、何より相手の投手がそれを許す訳が無い。
つまり、次のストライクが勝負という事である。負ければそこで死ぬ、真剣勝負なのである。
本望、野球人生を全うし、白球に死ねるのならば、私は未練も遺恨もありはしない。だがここで私が打てなければ仲間が哀しむ、涙に暮れ明日から元気に受験勉強に励む事になるだろう。
それは良しと出来ない。今も彼らは必死に私の名を叫び、応援をしているのだ。
彼らの期待を裏切るマネは、馬鹿共の仲間として、決してならない。
すっかり汗を吸った帽子が水滴を垂らした。
私は、練習や試合、仲間と過ごした日々を1人振り返り、フッと笑ってからバットを構えた。また水滴が垂れる。
一世一代の大勝負、維持と意地のぶつかり合い、その最終決戦の火蓋が今落とされる―――また、水滴が垂れた。
それも今度は一滴や二滴なんてケチ臭い量ではなく、投手もそれに気付いたか構えを解く。
見上げれば、先程まで青より青かった空が今ではすっかり曇天であった。
大量の雨粒が降り注ぐ、それはまるで野球の神様が、この勝負の決着が着くことを恐れているように、私は思えた。
私が引き返したベンチは、とても静まり返っていた。
何となくこの試合の行方を察したからであろう、早くも涙を流している者も居る。
予想通り、一度下がっていた主審がグラウンドに再び現れ雨天中止を告げて再び巣に戻っていった。
試合は9回、この時点で雨天中止が告げられた場合。試合は成立する。
かくして、私たちは為す術もなく試合に敗北した。馬鹿に相応しい、馬鹿らしい幕引きであった。
帰りのバス、車内は先程の雨より多くの涙がこぼれていた。
空にかかる、見事な虹に気付いた者は誰も居なかった。
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