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「女……だったと思います」
とカケは言う。
恐ろしくて振り向けなかったが、じとりと自分を見つめる視線をすぐ真横から感じ、金縛りにあったように動けなくなってしまったそうだ。それは全身が大きな影のような黒い女で、微動だにしない代わりに、カケの横顔をずっと見つめている様子だったという。
「女性だと思うのは、どうして? 見なかったんだろう?」
「その時は、勘としか言えませんね。でも、種明かしというか、後日談があるんです」
「解決してる話なの?」
「……分かりません」
カケが言うには、その後勇気を振り絞って大声を張り上げた途端、金縛りは解けたそうだ。するとそのタイミングで目の前の扉が音もなく開き、そこには洋館の女主人・鈴木律さんがトレーに夜食を乗せた状態で立っていたそうである。振り向くと、件の黒い女の影は消えていた。
カケは恐怖のあまり、かなり強い口調で鈴木さんを問い詰めたそうだ。
毎晩部屋の扉が開くのは何故か。
誰の仕業か。
今自分の側に立っていた幽霊はなんなのか。
あなたはあれを知っているのか。
錯乱した様子のカケを前に、初めの内は鈴木さんもおろおろと狼狽える素振りを見せたそうだ。しかしカケがあるひと言を言った途端、彼女の顔からは焦りも動揺も消え去ったという。
「こんな所じゃ満足に小説を書くこともできないよ……」
せっかく、妻との旅行を先延ばしにしてまでやって来たっていうのに……。
カケは、既婚者である。
その事実を知った途端、鈴木律さんの顔にはある種の冷徹ささえ浮かんだという。とてもじゃないが、客に要らぬ恐怖感を与えた宿泊施設のオーナーとは思えない顔つきだったそうだ。言葉では「はあ」「すみません」と詫びを口にしながら、その表情からはこれっぽっちも反省の色が見て取れなかった。それどころか、鈴木さんは憤慨するカケに対してこう言ったそうである。
「毎晩お夜食を運んで来るのですが、やはり書物をされている方だけに尋常ではない集中力がおありのご様子で、いくら私が声をかけても全くの無反応なので……」
噓だ!
とカケは叫んだ。
事もあろうに鈴木さんは、最初から声をかけて扉を開けていた、と言ったのだ。カケがそれに気付かなかっただけで、覗いていたわけでもひとりでに扉が開いたわけでもないというのだ。
「その可能性は本当にないのかい? あり得ない話ではないように聞こえるけど」
「ありえません。言ったでしょ、決まった時間が来るまでには僕は執筆を止めて、鏡越しに扉をずっと睨んでたんですよ。ありえませんよ、僕が気付かなかっただけだなんて!」
「まあまあ、分かったよ。怒らないでくれよ」
「怒ってません!」
カケのあまりの剣幕に、その時も鈴木さんは僕同様「まあまあ」となんとか気持ちを落ち着ける方向へと態度を和らげ、「あと二晩のことですから」と言ったそうだ。
あと二晩、お気に召さないようであれば、もうお夜食はお持ちしませんので。
カケはその瞬間、「やばい」と感じたそうだ。
理由は分からない。
恐ろしい体験をしたのだ。単純にその恐怖感から来るものかもしれないし、何ら納得のいく説明をしないまま既定の一週間を過ごさせようという鈴木さんに、不気味とも言える得体の知れなさを感じ取ったのかもしれない。しかしカケは、もっと根源的な部分で危機感を抱いたという。
もう、ここにいてはいけない、そう感じたそうだ。
翌朝早く、カケは荷物をまとめた状態でチェックアウトを申し出た。宿泊費はすでに前払いで納めている、差額を返してもらうつもりもない。引き留めても無駄であるという強い姿勢で鈴木さんに話をすると、なんとなく昨晩よりも疲労した様子の彼女は、突然受付カウンターに突っ伏して泣き始めたという。号泣だったそうだ。
カケはますます怖くなり、是も否も返さない女主人を何度も振り返りながら、洋館を後にしたという。
「僕、帰ってからも気になって、あの洋館の事調べたんです」
「確かに、気になるね。何か分かったのかい?」
「多分ですけど、僕の部屋に入って来た黒い女の影、あれ、あの女主人の娘じゃないかと思うんです」
「へえ、それはまたどうして?」
「あの洋館、以前は普通の持ち家だったって言いましたよね。亡くなった旦那さんたちと住んでいた白亜の大豪邸です。かなりの資産家で、旦那さんがご存命だった頃はビジネス誌にもたびたび顔を出すレベルの有名人でした。もちろん、鈴木というのは旧姓なんで、名前は違うんですけどね。あの家には一人娘がいて、結婚秒読みと言われてた婚約者がいたそうなんです」
「よくそこまで分かったね」
「いや、その相手ってのも有名人なんですよ。新開くんなら知ってますよね、宇内禅っていう」
「うな……え、賞作家だよね。文豪と言っていいくらいだ」
「ええ。だけどその宇内、実は嫁も子供もいるんですよ」
「……不倫、か。まあ、年齢を考えたら、そうだろうね」
「だけどその娘は知らなかった。鈴木さんとこの娘も妊娠していたらしくて、自分が不倫相手だったって知った時は相当ショックだったんでしょうね。金持ちの両親からそりゃあ可愛がられて育ったでしょうから。で、その娘さんは世を儚んで恨みを抱いたまま、自殺、と」
やりきれないな、と僕が答えると、カケは電話越しに溜息をつきながら先を続けた。
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