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そして桜舞う4月下旬。待っていたのは酒に酔い、踊り狂う私の教育係の先輩だった。
「おい!楽しんでるか?新人!」
はーい!と同期たちの元気な声が弾ける。私は一人、氷の溶けた烏龍茶のグラスを握って、早くこの時間が過ぎることを祈っていた。
今日は営業課総出の新人歓迎会。大手企業だけあって、そこそこ広い会場を借りて行う春の一大イベントらしい。所謂、大飲み会。もちろん、出席なんてまっぴらごめんだったが、教育係があの人な時点でお察しだ。問答無用で出席。「お酒は飲めなくて…」といつものお決まりの文句は「営業は人脈が大事だ。会社の中でも作っといて損はないぞ!」の一言に封殺された。
でも、この人は人にお酒を勧める、ということはしない。この歓迎会の前に、何度か食事を共にする機会はあったが、私がソフトドリンクのメニューを捲っていようが、特に何も言わず、先輩は一人でお酒のメニューをパラパラと嬉しそうに捲っているだけだ。
大学時代の友人と同じように、先輩もまた酒豪と呼ばれて相応しいほどの飲みっぷりだが、この態度はかなりありがたい。私はそういう人を引き当てる運でもあるんだろうか。
だがしかし、こういう大勢のお酒の飲める人の群れに一人放り出されるのは話が別である。
私がバカだったのは1杯目に頼んだジンジャーエールを早めに飲み干してしまったことだ。グラスが空なのを、営業課の人々は目敏く見つけてくる。接待で磨いた技術なのか。「次、何(のお酒)飲む?」と屈託なく聞いてくるもんだから、断るのも大変だし、一々説明している暇もない。3人目あたりで私の嘘つき心は折れて、「烏龍茶を…」と勝手に口が動いた。「烏龍茶?ウーロンハイじゃなくて?」と言われた時には卒倒しそうになったが、首を振るに留めた。
それで、ボーっと突っ立ていること数十分。グラスの中身は生ぬるくて、飲めるけど、進んで飲みたくはない。
「いた!おーい、えーっと……」
1人の女子社員がやってきた。確か彼女は同期の新人だ。この前一緒にランチに行った。名前を忘れてそうだったのでこっちから名乗ると彼女は安堵した顔を見せた。
「この前のランチの時さ、アイドルの○○君が好きって話してたじゃない?」
言ったっけ…?ともすると知ってるから話題に出した、だけかもしれない。曖昧に頷くと彼女は満足したのか手にしていたスマホを取り出した。
「彼がね、今度、父の日と△△△のコラボCM出るんだって!さっき発表あったみたい!」
「え、あ、そ、そうなんだ」
「ね、それ今から一緒に飲まない?」
「へ……!?」
どう聞いてもお酒飲まない?のテンションに私は面食らってしまう。
あとで調べて分かったことだが、それは確かに有名なお酒のブランドの名前だった。
なんとか二次会の誘いを全て断り切り、家の玄関まで辿り着く。
「ただいまぁ…」
リビングに向かうとTVの前に寝間着姿の父が見えた。
「お、帰ったか。じゃ、俺もそろそろ寝ようかな。観るか?」
とリモコンを差し向けてきた。
「観る」
「OK。仕事お疲れさん」
「マジで大変だよ……ありがとう、おやすみ、お父さん」
リビングには一人、TVの音だけが流れた。
本当に、仕事は疲れる。1ヵ月も働いていない身で、守るべき家族もいない身で既にこれなのだからずっと働き続けていたお父さんは、これ以上に大変だっただろう。酒の1杯くらい飲みたくなる気持ちが少し分かるかもしれない。
「でもお酒を飲む気には絶対になれないなぁ……」
冷蔵庫を開けて、ラックに収まったビールを素通りし、ミネラルウォーターを取る。
その考えが数秒後にひっくり返されることを私は知らない。
まさか、あのCMが既に放映されているだなんて誰が知ろうか。
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