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「全て、私のせいなのです」
秀子さんが、静かに口を開いた。
「私は若い頃、ある男性を愛しました。どうしても添い遂げたいと強く願う、生涯に一度の、本当の恋慕でありました。しかし、その方はすでに家庭を持っており、私たちは結ばれぬ定めでした。所詮は道ならぬ恋、いかに想いを寄せても決して実らぬものであると、張り裂けそうな胸の内を抑え込み、ようやく身を退く決心をしましたとき、私のお腹には新しい命が宿っていたのです。産むか堕ろすべきか悩み抜いた末に、私は産むことを選びました。それが京介でした。生まれたばかりの子に、片親という宿命を背負わせてしまったのです―――私は両親の助けを借りて、懸命に京介を育てました。しかし、元々裕福な家柄ではございませんでしたし、私自身にも取り立てて職位もなく、安定した生計を立てられぬまま、暮らし向きは一向に良くなりませんでした。貧乏な家の父なし子……。周囲から卑下され蔑みばかりを受けて育った京介が、他の人を押し退けてでも栄進して富を築くという志向を抱いてしまったのは、決して責められるものではないのです。将来を誓ってくださりました真咲さんと離婚せざるを得なくなってしまったのも、本を正せば私の不徳が招いてしまったことなのです」
そっと目頭を押さえる小さな肩を、京介さんは横から抱き締め、
「母は必死に私を育ててくれた。幼い子を抱えて早朝から夜遅くまで働き詰める、それは言葉に出来ぬほど過酷な日々であっただろうに、苦心を面に出さず、いつも明るく振る舞い愛情を注いでくれた、本当に立派な母親だった。だが、そんな慈愛の心を知ろうともせず、身上に強いコンプレックスを抱き続け、いつの日か上層階級に昇り、その高みから私と母を侮蔑してきた連中を見下し嘲笑し返してやるのだという偏屈な妄念が、まだ若かった自分のなかでどす黒く渦巻いていた。真咲や小夜の幸福のためだという自負を持っていたつもりが、現実には己の醜い欲望を包み隠すための格好の口実でしかなく、いつしか人として歩むべき道を完全に踏み外していたんだ……。二人が私のもとを去った後、失意のうちに会社へ辞職を願い出たのだが、別れを惜しんでくれる者は一人としていなかった。そのときに初めて、取り返しの着かない過ちを犯したのだと悟ったんだ」
瞳を閉じて首を垂れる面持ちに、胸が締めつけられてゆく。
「会社を辞めた後、せめて一言詫びたく思い真咲の実家へ向かったが、小夜とともに他の町へ移っていったらしく、行き先は終に教えてもらえなかった。仕事も家族も何もかもを失い、その後の身の施し方を考えることが出来ぬまま、抜け殻のように毎日を過ごしていた折に、ふと思い出されたのが小嶋さん御夫妻の笑顔だった。過剰な儲けに走らず、宿泊客へのおもてなしに尽くしていた振る舞いが無性に懐かしく、意を決し連絡を入れてみると、新しくゲストハウスをオープンしたので、一度訪ねてきて欲しいと睦まやかな返事をくれ、私は縋る想いで御二人のもとへ向かった。事ある毎に楯突くばかりでろくに仕事もしなかった不良青年であり、その後長い間音信不通だったにも関わらず、御二人は以前と同じように温かく迎え入れてくれた。そして全ての経緯を打ち明けた私を、親身になって優しく諭してくれたんだ。そのとき私は、須美子さんに母の面影を重ね、昭人さんに対して、これまで寄せることの叶わなかった父親像を映し出せたんだよ」
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