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「開店した頃は、不安ばかりが募る毎日でした。誰一人知り合いのいない、初めて住む町での慣れぬ店営業に、心許ない気持ちで占められていたのです。しかし、当時学生だった想樹くんをはじめ、地域の皆様に足を運んでいただくなかで、少しずつ顔馴染みが増えていき、気がつけば多くの方々と親しく触れ合えるようになりました。新参者も分け隔てなく優しく迎え入れてくれる、その人情溢れる真心に助けられて、安らぎに満ちた日々を送ってこられたのです。そうして四年前に、一度町を離れた想樹くんが再び訪ねてくれ、それから時を隔てて水澄ちゃん、さらには純くんも加わって、団欒の輪も広がっていきました。こうして皆とともに過ごせる楽しい時間に、私と京介は充分過ぎるほどの幸せを感じている、その本心をずっと伝えたかったのです」 「小母さん……」  水澄さんの嗚咽に、淡い気泡が溶けてゆく。  誰だって一つや二つ、失意に暮れる時期を経験しているものさ。そのなかで明暗を分けてゆくのは、悲観を乗り越え成長していこうとする気力なんだ―――月夜里に初めて訪れた夜、駅まで迎えに来てくれた想樹さんが諭してくれた胸裏には、愛する者と結ばれなかった秀子さんと、愛する者を手放してしまった京介さんの、終生に渡って宿される果てなき哀愁も込められていた。しかし、全てが語られ明かされた後にも、変わらぬ信頼がそこにあった。 「素晴らしい仲間を持ったな、京介くん」  昭人さんが朗らかな笑顔を向けて、 「幸と不幸を最後に分かつのは、結局はその人自身の心の在り方次第なのだろう。愛する妻子と離れ離れになったにも関わらず、これだけ活発で屈託の無い子どもたちに囲まれるのは、人生を投げ出さず、努力を重ね誠実に生きてきたなかで掬い取った合縁であると思うんだ。私たち夫婦は、そんなきみと出会えた幸運を誇りにして、この地でいつまでも見守っているよ」 「また機会を作って月夜物語へ遊びに行くから、そのときには自慢のコーヒーでもご馳走してもらおうかしら。楽しみにしているわね」  固く結ばれた絆は、生命を照らす貴き輝石。深く頭を下げる京介さんの手元に、一粒の雫が零れ落ちた。
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