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 母の涼子(りょうこ)は、先月の末に職場で倒れ、救急搬送された。疲労の蓄積に体が蝕まれながらも必死に堪えていたが、限界を超えた後の一両日の昏睡状態に反動した。診断では脳内におびただしい出血があり、手遅れ寸前の状態にあったという。もう少し早く検査を受け治療に専念していれば、こうまで酷くはならなかったろうに……、担当の医師がホワイトボードのレントゲン写真に向かって険しい表情で呟くのを聴きとめ、無理にでも病院へ引っ張っていくべきだったと強く悔やんだ。  四年前の春先に父の圭一(けいいち)が事故で他界し母子家庭になってから、母は従来のピアノ講師と派遣事務に加え、製造会社で臨時社員の仕事を新たに始めた。早朝から深夜に及ぶ過酷な労働にも関わらず、精力的に働く母は常に気丈に振る舞っていたが、歳月とともに痩せ細っていく姿に心が痛んだ。だが、幾度となく病院で診察を受けるよう促しても、決まってやんわりと、しかし頑なに拒んできた。 「私は見た目よりも頑丈だから、そんなに心配しなくて良いの。それより、毎日家の手伝いをさせてしまって、純(じゅん)にはすまないと思っている」  母はいつも、自身のことは二の次であった。放課後も遊びに行かず真直ぐ帰宅し家事に時間を費やしている、そんな息子を不憫に思っていたのだろう、事ある毎に謝ってばかりいた。そしてその度に、生活を支えるため懸命に働いている母が、何故これほど辛い思いをしなければならないのだろうかと、遣り切れぬ感情が心の中を搔きむしった。同時に、このような生活を続けていけば、いつか母は体を壊してしまうかもしれないという、暗然とした危惧が付いて離れなかった。  あらゆる結果には必ず予兆が伴い、それに気づき早期に対処するか、それとも見過ごしてしまうかの相違こそ分岐なのだろう。記憶を辿ってみれば、母は倒れる数週間前から時折起こる片頭痛に悩まされていた。風邪が流行っていた時期でもあり、しばらくすれば快復するだろうと、それほど深刻に捉えなかったのが仇になった。四時限目の授業中に教頭先生が深刻な顔で教室に入ってくるなり、職員室に連れて行かれ母の昏倒を告げられた。それまで薄らと取り巻いていた暗雲が急速にどす黒く立ち込め、動揺と不安に襲われながら病院へ走った。  緊急手術の準備に慌ただしく動き回る医師や看護師の姿を目の当たりにして、改めて事態の重さが現実味を帯びて圧し掛かってきた。一刻を争う状況だと放たれた叫び声が胸を刺し、押し寄せる恐怖に体が震えて止まらなかった。教頭先生が両肩を支え、今にも崩れそうな心身をかろうじて抑えてくれていた。  手術中はただ祈り続けるしかなかった。仕事に戻らなければならない先生の代わりに、受付の看護師がずっと付き添ってくれ、お母さんは絶対に大丈夫だからと、優しくかけてくれる言葉にしがみついた。悲観に強迫され押し潰されそうになるなかでの、唯一の拠り所だった。そうして気の遠くなるような時間が過ぎ、ようやく手術室のランプが消え、出てきた医師に一命を取り留めたことを告げられた瞬間、視界が熱く潤み、涙が一気に溢れ出た。良かったねと頭をなでられ、堪え切れぬ嗚咽とともに何度も繰り返し頷いた。
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