1/1

33人が本棚に入れています
本棚に追加
/227ページ

           ――― 第一章 ―――  緩やかに鳴り渡る発車メロディの音に、どこか懐かしい空気が漂った。窓の外へ目を向けると、先ほどまで粛然と控えていた木造の駅舎に麗らかな陽光が注がれ、純朴な佇まいを明るく包み込んでゆく。  プラットホームの先端に設えられた花壇には、若紫に瞬く花弁がこちらを望み、軽く手を振るように揺れており、タチツボスミレと記されたネームプレートが奥床しげに添えられている。整然と植えられている姿から咲き匂うのは、手入れする者が忍ばせる温かな感情であり、色づきに映える園芸こそ、心豊かに愛でられている証なのだと思う。育てる人の気持ちに満たされて、植え花は優美に開花するものだから。  およそ一時間置きに時刻が記載された表示板の脇には、酒店や雑貨屋、スーパーマーケットなど周辺の店舗のものらしき看板が立ち並び、改札口の側に設置された待合室のベンチには、手造りを思わせる座布団が慎ましやかに並べ置かれている。いずれも傷みに褪せ古びてはいるが、長年に渡って染み込んできた往来の跡に、胸が静かに透き通る。  訛りを含んだアナウンスとともに、豪快な音をたててドアが閉まり、乗り継いだ二両編成のワンマン列車は、ゆっくりと駅を後にする。簡素にも一つ一つの粒子が色濃く溶け合い、地域固有の生彩を表出するなか、内側に秘めた淑やかな心遣いを尽くして惜しまず、連綿と紡がれてきた気風を淡く結わせていく。その余情は、あるいは旅路に身を置くなかで自然と生まれる感傷なのだろうか。  後方へ流れてゆく穏やかな景色。静かな居ずまいに香り立つその柔らかな名残にも、目的地へと向かう遠路の旅程に途中下車を挟む時間はなく、いつの日か叶うかもしれない再訪を期待に添え、離れゆく駅名をそっと瞼の裏側に映しておいた。  車内は乗り入れもまばらで、四人掛けのクロスシートに一人座れたものの、隣の座席を覆うばかりに大きく膨らんだリュックが気に掛かり、網棚に載せておこうと持ち上げてみた。しかし、幾ら腕を突っ張っても届かず、溜息とともに床に下ろしたとき、後部車両から入ってきた長身の男性が側に立ち止まると、 「きみでは無理だろう。ここに置けば良いのだな」  言い終えぬうちに、軽々と担ぎ上げてくれた。瞬時の所作に呆気に取られたが、 「降りるときも、近くの人に頼んで下ろしてもらえば良いさ」 「あの……、どうもありがとうございます」   我に返り、慌てて頭を下げると、男性は軽く相好を崩して、 「親切のバトンタッチだ、少年。どこかで困っている人を見かけたら、出来る範囲で良いから手を貸してやってくれ」  じゃあな、と手をひらひら振って歩いてゆき、最前列のシートに腰を下ろした。親切のバトンタッチ―――背もたれに収まり切らぬその後ろ姿を眺めながら、静かに反芻してみる。ささやかで素敵な言葉だと思った。見知らぬ相手にも臆せず、些細なことでも躊躇わずに、思うままに手を添える。預けられた労りは次へと継がれ、清らかな弧を巡りゆき、いつか己へと還ってくる。人々が頼り合って生きてゆくなかで、美しく描かれる永遠のロンド。  仄かな温もりが残るこのバトンを、僕は誰に渡すのだろう。懐中に灯った橙黄色のときめきを消さずにおこうと、ポーチから手帳を取り出し、親切のバトンタッチと丁寧に書き記した。これから始まる新しい生活のなかで、心を打たれた出来事や、思案を重ねた事柄を綴っておきなさい、長い人生の節々に読み返せば、きっと役に立つだろうから―――出立の際に母から手渡された、厚革の手帳であった。
/227ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加