第二章 四年前

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      <2>  エレベーターに乗り込むなり、七瀬は素早くリップを塗りなおす。もう、誰も見ていないからって――薗部翔平の、その大胆さにはいつもドキドキさせられる。スリルを楽しむタイプと付き合うのは初めて。毎日、心臓がいくつあっても足りないって感じ。  エレベーターは珍しく、二〇階からノンストップで一階まで下りきった。平坂七瀬は足取り軽やかに、ホテルのようなエントランスホールを抜け、オフィスビルを出る。丸の内の高層ビルに囲まれたそこは、日本中のエリートが集まる街だ。二ヶ月前まで、大学を卒業してから引きこもっていた自分が、こんなところで働けるなんて。このオフィス街に立つたび、何としても予備試験と司法試験に合格して、弁護士になってやると決意を新たにしてくれる。  七瀬は隣のビルの一階にあるコーヒーショップで、アイスコーヒーを二つ買う。自分の分はミルクとシロップを一つずつ。もう一つは翔平の分で、シロップ三つ、ミルクなし。  寒い日も暑い日も、翔平のオーダーは決まってシロップ三つ入りのアイスコーヒー。多忙を極める弁護士と言う職業故に、飲むのに時間がかかるホットの飲み物は避けるという翔平のポリシーを格好良く感じ、身体が冷えるのを我慢して真似するようになった。でも、今日のような秋晴れの穏やかな日はいいが、これから冬になったらどうしよう。  両手に持つプラスティック製のカップの冷たさが、身体に染み込んでくる。  ビルのガラスを姿見にして、身だしなみのチェック。よし、大丈夫。クライエントと直接やり取りするのは弁護士である翔平の仕事だが、そこに同席するのだから、恥ずかしい格好はできない。  これから会うクライエントは製薬会社の部長で、離婚調停の真っ最中だった。本来なら企業法務が専門の法律事務所なので、離婚調停などは扱わない。だが、クライエント企業のお偉方からの紹介で依頼があった場合は、そのクライエントとの関係性、事案の勝ち目、そして報酬に応じて引き受ける場合がある。今日の案件はまさにそういう類のもので、翔平は全く乗り気でなかった。所長から直々に担当弁護士として任命されなければ、絶対に引き受けることのない案件だ。  法律事務所のパート事務員である七瀬は、本来ならクライエントと弁護士が立ち会う場にわざわざ同席することはない。だが、弁護士を目指しているということで、翔平が特別に計らってくれているのだった。もちろん、恋愛関係があることは事務所には秘密にしている。  遅いな。アイスコーヒーの氷が一回り、小さくなっている。いつもなら、すぐに下りてくるのに。何か、急な電話でも入ったのかな。  そのさらに一分後、翔平は明らかに不機嫌な表情で現れた。事務所では絶対に見せないその表情を、自分にだけは見せてくれる。不機嫌な翔平はちょっと面倒くさいけど、他人には見せないその表情を、自分だけが見ることのできる優越感もある。 「予定変更。クライエントに、急用でキャンセルと伝えて」  翔平はそう言って、アイスコーヒーをひったくる。
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