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第一章 :民宿『大原間』
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高速道路のインターを下りて直ぐ、僕はナビを頼りに、山中へ分け入る道路へとヨレヨレの白いゴルフを進ませた。インター近くと言っても、この辺では特に土産物屋が立ち並んでいる観光地というわけでもなく、間際にまで迫った山腹を舐めるようにして国道が続いているだけだ。おそらく冬場には深い雪で覆い尽くされるものの、近隣のスキー場に遊びに来る客が途絶えることは無く、むしろ夏場の方が閑散としているのではなかろうか。
初夏へと向かう山々は既に萌黄色から濃い緑へと変貌を遂げ、僕を包み込むようにそびえる稜線と、その背後に広がる青空とのコントラストを際立たせている。その空に浮かぶ雲の白さとその高さも、子供の頃から馴染みのある、東北の夏の訪れを予感させた。
暫く進むと、国道から左に逸れる県道への分岐に差し掛かった。県道はそこから斜め下へと伸び、そのまま月井内ダムという人造湖の入り江を跨ぐ橋へと続く。その交差点にはこの辺で唯一のドライブインが有り、この地方の名物料理なのか「山菜鍋」の文字が必要以上に大きなフォントで踊っている。
店の裏側に控える湖では、ボートの訓練にいそしむ女子高生と思しき一群の賑やかな声が響いていて、この近くの高校生なのだろうか。いや、ひょっとしたらもっと遠くから、合宿目的でこの地に来ている都会の子たちなのかもしれない。僕は橋の上でゴルフの速度を落とし、遥か下の湖面にばら撒かれたカラフルなM&M’sのような色彩を眺めながら、そんなことを思った。
人造湖を形成する主要な流入河川の一つ、月井内川の ──「ナイ」とはアイヌ語で川を表す言葉だ。従って北海道はもとより、東北地方にもこの「…ナイ」という名の河川があちこちに点在する── 本流の右岸(川の流れる方向に向かって右側)に出た僕は、ゴルフを右折させて川沿いを上る。所々で川を跨ぐ橋を越える度に、月井内川は右へ左へとその姿を移動させながら、僕を奥へ奥へと導いた。
(この辺に来るのは初めてだったろうか・・・)
今まさに僕が分け入らんとしている山塊の向こう側、隣県の七代市側であれば、子供の頃から馴染みが深いが、こちら側は初めての訪問だと思われる。そう、僕はこの山の分水嶺を越えた向こう側の七代市の生まれなのだ。日本海側で生まれ育った僕にとって、こちら太平洋側では色々なもの ──それは山に息づく動植物だけでなく、そこに生きる人々の言葉や文化や考え方、或いは生き方そのもの── が僕の地元とは明らかに異なっていて非常に興味深い。同じ東北地方というカテゴリーにあって、それぞれの個性の違いは明白なのだ。
地図や旅行雑誌でいまだ訪れたことの無いそういった未知の領域を探し出しては、あれやこれやと想像を働かせるのは至上の喜びだ。そして空想の締めくくりとして、最後に実際に訪れてみる。こういった道楽を始めて数年が経過していて、僕はこの月井内村に初めてやってきた。
もうFMもAMも入らないし、同じ曲しか奏でない内臓HDDの楽曲リストも聞き飽きた。僕の愛車の時代遅れなカーコンポは先ほどから落とされたままで、時折、カーナビの無機的なアナウンスが聞こえるだけである。
月井内川と並行しながら山中へと延びる道を走りながら、キョロキョロと辺りを見回す。緩やかなアップダウンを繰り返しながら、それでも徐々に標高を上げているようだ。見たところ、これといった産業も見当たらず、農業をするには谷間が狭すぎる。道の両側に立つ家も疎らで、やはり林業主体で細々とやっている山村という風情だろう。
その所々に民宿と看板を掲げた家屋がやたらと多く目に付くのは、予想通りスキー客目当てで冬場の収入を確保しているからなのだろうが、いわゆる旅館の体を保っているものは少なく、普通の民家と思しきものが主体である。僕的には設備の整った旅館などより、地元の人と触れ合える民宿の方が好みと言え、金銭的な面からもむしろその方が好都合だった。
そんな風に脇見運転をしていると、「この先、右カーブです」と感情の籠らない女性の声でナビが伝えた。月井内川に出会う一本の支流に架かる、小さな橋を越えた時のことだ。それを越えて直ぐに右へと折れる道の真ん中に、林業従事者風の成りをした若い男が立っていた。
キィィィィーーッ。
丁度、橋を越えて小さな下りとなっている部分で、タイヤに掛かる荷重がフワリと抜ける場所だった。そのお陰でゴルフのブレーキシステムが作り出す制動力は大幅に目減りし、たいしたスピードも出していないのに盛大なスキール音が鳴り響く。そしていつも以上に制動距離が長くなってしまい、急制動によってABSが作動した。大きくノーズダイブして停車したゴルフは、ガガガッ・・・ グアン、グアン・・・ と大袈裟なピッチングで僕を揺さぶり、不注意なドライバーに対する不満を表明した。
僕の心拍数は一瞬にして跳ね上がり、ステアリングを握る手から噴き出た汗が、掌をじっとりと濡らしていた。しかし恐る恐る上げた視線の先では、顔色一つ変えることの無い男が、フロントウィンドウ越しに僕の方を無表情に見つめ返すだけだ。その視線からは、自分がたった今、大怪我を負わされていたかもしれないという焦りや驚き、或いは怒りのようなものが一切感じられず、むしろ相手の心の中にヌルリと入り込んで感情のひだを舐め尽くす、得体の知れない邪悪な生物のようにすら思えるのだった。生気を失った男の目には、僕の心臓をゾワリと凍てつかせるに十分な不気味さが湛えられていた。
そして男はプィと踵を返すと、そのまま熊笹を掻き分けるようにして、支流沿いの林道に消えていった。ヨレヨレの作業キャップを被り、小豆色の雨合羽と紺色の作業ズボン。足元はゴム長靴を履き、腰にはケースに入った生木伐採用の鋸がぶら下がっている。僕はその男の後姿をボンヤリと見送ったが、男が雨合羽を着ていることが妙に心に引っ掛かるのだった。
(こんなに天気が良いのに・・・ これから雨になるのだろうか?)
口の中にはまだアドレナリンの味がするような気がした。
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